修道中学校・修道高等学校は1725(享保10)年11月4日、広島藩第5代藩主・浅野吉長(よしなが)公が「藩政のための人材育成」を目的として、白島稽古屋敷(武士やその子弟の武術練習場)の一部に創始した「講学所」を創設の起源としています。全国の藩校の中でも早い時期に創設された「講学所」での教育は、広島藩での本格的な武士教育の始まりでした。
幼少時より優れた学者に学んだ吉長公は、学問と政治の一致を目指した数少ない藩主でした。藩政に関わる者は、「武道の練磨」と「文教の振興」を心掛けること、つまり文武両道を家臣たちに奨めました。武道の鍛錬に日々精進することはもちろん、物事の筋道を理解し、正しい判断をするためには学問が必要であるという考えを示したのです。そして「敬」の一字を授けました。「敬」の精神は、民に対してきちんとした態度で臨むこと、親や周囲の人々に対して慈しみの心を持つこと、正しい行いをする人を抜擢し、能力の乏しい人には親切に教え導くことであるというものです。
吉長公は、自身の侍講(じこう…君主に対して学問を授ける人)を、藩政改革にも参画させました。厚い信頼を寄せていた寺田臨川を講学所の初代校長に任命しました。臨川は講学所の基本方針として「学規三則」を示しました。その内容は一、学問は自分の身を修めるものであること、二、日常生活では礼儀を重んじること、三、学業を行う者は互いにその「志」を励まし、力を尽くすことというものです。
やがて講学所は「講学館」へと名前が改められました。新たに優秀な教授陣を招聘するなど、臨川は藩校の発展に力を注ぎました。しかし、飢饉や参勤交代などに多大な費用を要することなどで財政基盤は徐々に揺らぎ始め、「御省略令(節約令)」を出さざるを得なくなるほど経済状況が悪化していました。藩士たちの俸禄(給料)も半分を藩の財政として借り上げるという「半知借上」の政策も取られましたが、ついに1743(寛保3)年、経費節減のために白島稽古屋敷は閉鎖され、講学館も休業せざるを得なくなりました。臨川は私塾を開いて教育を続けましたが、藩の運営する教育機関はこの後しばらく中断されました。
第6代藩主・宗恒(むねつね)公の時代になると、国老(大名の領地にいる家老)上田主水(上田家開祖・宗箇は、茶道上田宗箇流の祖)が城内の私邸に学問所を開くなど、家臣が独自に子弟を教育する動きが出始めました。
宗恒公が始めた財政改革を引き継いだ第7代・重晟(しげあきら)公は自らも倹約に努め、華美な諸行事の省略や藩士の働きに応じた俸禄制度などの諸改革に取り組み、次第に財政の苦境を脱していきました。かねてから講学館の休業を残念に思っていた重晟公は、藩校の再興を決意しました。これまで世襲であった儒官(公の機関で儒学を教授する人)に加えて、頼春水、香川南浜を民間から登用しました。また流派にこだわらず多くの学者を抜擢し、藩校を再興する準備に当たらせました。
1782(天明2)年、講学館の休業から約40年を経て、広島城内三之丸に「学問所」が開設されました。藩主の側近はもちろん、下級藩士や百姓・町人の子弟に至るまで入学を許可するという進歩的な藩校でした。そのため多くの志願者がありましたが、全員を受け入れることができないほどでした。学問所は広く優れた人材を育てたいという、重晟公の熱い思いと高い見識によって生まれた学び舎でした。
1799(寛政11)年、重晟公が37年の治世を終え藩主を退いた後も、次代の斉賢(なりかた)公は重晟公が整備した法や制度を守り、広島藩の文化・学問を盛んなものとしました。さらに次代の第9代・斉粛(なりたか)公の治世は、有名な「天保の大飢饉」に苦しんだ時代でした。さらに幕府からは幾度も工事などの事業を命じられ、藩の財政は窮乏しましたが、藩校は閉鎖されることなく、金子霜山、坂井東派、頼聿庵、坂井虎山らのすぐれた学者によって活況を呈しました。
そして時代が幕末の嘉永・安政の頃には、藩校再興から80年にして重晟公の遺業は開花し、藩政を支える人材や、学問・教育において優秀な人材を育成しました。こうして広島藩の文教は広く庶民にまで浸透していきました。
1853(嘉永6)年、アメリカの遣日国使ペリーが大統領国書を携えて浦賀(神奈川県)に来航し、翌年には、日米和親条約が結ばれ、日本は長い鎖国から開国へと移っていきました。この「黒船来航事件」に先立ち、通商や燃料、食糧の補給を求めて外国船が頻繁に来航していました。当時の日本は諸外国との関係を断つことができない時代を迎えていました。
黒船の来航は幕府を動揺させました。そうした状況下で、朝廷を押し立て外国勢力を排除せよとの尊王攘夷の機運が高まる中、1858(安政5)年には、アメリカの領事裁判権、関税自主権の放棄を認めた日米修好通商条約(不平等条約)が結ばれました。やがて尊王攘夷運動は討幕運動へと展開していき、260年余りにわたって続いた徳川政権は終わりを告げようとしていました。
こうした幕末の動乱期に広島藩では、1858(安政5)年、わずか6カ月の治世に終わった第10代藩主・慶熾(よしてる)公の後を11代・長訓(ながみち)公が継承しました。長訓公は朝廷の命による、江戸の台場(砲台)の警備や長州戦争への対応などの時局に奔走する中にあっても、学問所のことをおろそかにすることなく、新たな時代に対応できる人材を育てるための改革として、これまで主流だった漢学に新たに和学(国学)・洋学を加え、後に私学修道の開祖と呼ばれる山田十竹を塾頭とする寄宿寮の開設などを行いました。さらに1866(慶応2)年には国学を中心に学ぶ「皇学所」を併設し、朝廷中心の政治を目指す尊王思想を奨励しました。
開国以来の経済・社会の混乱が続く中、1867(慶応3)年10月、大政奉還が行われました。そして12月には王政復古の大号令が発せられ、ついに江戸幕府の廃止と新政府の樹立が宣言されました。広島藩では1868(慶応4・明治元)年、幕末の動乱期に中止されていた学問所学塾が、山田十竹の進言によって再興され、翌年には、病気のために退いた長訓公を継ぎ、長勲(ながこと)公が第12代藩主となりました。長勲公は当時の全国的な社会不安に備え、藩士の子弟が学問と軍事訓練を行う「文武塾」を志和(現在の東広島市志和町)に開設しました。また広島の学問所には、激しい変化を続ける時世に対応するために「洋学伝習所」を開きました。さらに1870(明治3)年には学舎を城内三之丸から現在の広島市中央図書館付近に移転しました。名称も「修道館」と改め、漢学・国学・洋学・医学(西洋医学)に学修科目を拡張しました。現在の修道の名は、この修道館を起源としています。
講学所の創始以来、長きにわたり、多くの有為な人材の育成に力を注ぎ続けてきた藩校でしたが、1871(明治4)年の廃藩置県の宣言によって、修道館は広島県から休業を命じられ、その年の10月23日幕を閉じたのでした。
Column
至聖先師孔子神位木主
学問所の建物の一室は、学問の祖である孔子を祀る聖廟とされ、重晟公の直筆により「至聖先師孔子神位」と記された木主(位牌)が安置されました。この木主は、以後200年以上に渡って受け継がれ、現在は修道中学校・修道高等学校の記念品室に展示されています。この木主が本校に現存していることは、本校が広島藩の藩校の流れをくむ学校であることを示す証でもあります。