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修道ヒストリア

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<第2回>
山田十竹先生(下)

修学館の閉鎖から5年半ほど過ぎた1877(明治10)年の春、旧藩主・浅野長勲公は県下の教育機関を視察し、その不備を嘆かれました。また長勲公には藩校・修道館復興への強い思いもあったことから、新しい学校の設立を計画されました。そして翌1878(明治11)年、私財を投じて広島市流川町の泉邸(現在の縮景園)に「浅野学校」を開校されたのです。浅野学校は旧藩主が設立した学校であることや、基礎学力の習得を目指した科目を中心に、熱心な教育が行われたこともあって、多数の生徒が入学したと言われています。

浅野学校設立一件
浅野学校設立一件

浅野学校の設立から3年後の1881(明治14)年、長勲公は、時代の変遷とともに乱れつつあった道徳を正し、また普通学の教授を行うために、学校の学制改革に着手されました。そして同年8月、校長や教職員を解職し、校名を旧藩校の修道館から「修道」の2文字を引き継いで、「修道学校」と改められました。さらに修道学校の校長には、海軍兵学校の教官であった山田十竹先生が抜擢され、学校運営のすべてを任されることになったのです。

この頃の日本では、憲法の制定や議会の開設、言論や集会の自由などを求める、自由民権運動の機運が高まりつつありました。十竹先生は、政治の分野においても国家・社会に寄与する人材を世に送り出したいという思いを強くされ、1884(明治17)年、前途有望な生徒達に、司法省法学校(現在の東京大学法学部の前身の1つ)を受験させることにしました。
しかし、法学校受験のために生徒達を東京へ引率する直前、十竹先生は長男を水難事故で亡くされるという不幸に襲われます。悲しみの癒えぬ中、わが子と机を並べた生徒達を連れ、東京へ向かわれた十竹先生の心情はいかばかりだったでしょうか。深い悲しみの中にあっても、私情を抑えて教育活動に邁進された姿に、人材育成に対する先生の強い意志を感じられるのです。

1886(明治19)年、着実な歩みを続けていた修道学校に重大な危機が訪れます。これまで物心両面にわたり学校経営の柱であった長勲公が、経営から手を引かざるを得ない事態になってしまったのです。藩校の継承に情熱を傾け、熱烈に学校を支援されてきた長勲公が、突如、経営者を退かれることには、やむを得ない事情がありました。この時期、明治新政府は全国に公立の学校を整備し、国民の教育を積極的に推し進めていました。依然、旧藩主として影響力をもっておられた長勲公は、新政府の施策を支持し、公立学校の設置と運営の推進を図る立場に立たざるを得ず、私的な学校である修道学校の経営を続けられなくなったのです。しかし長勲公の修道学校存続への思いは断ち難く、経営から離れた後も学校に多額の資金援助などを続けられました。

長勲公という学校の大きな支えを失った十竹先生は、この先の修道学校の運営に、大いに悩まれることになりました。しかし「人材あれば国即ち盛ん、人材無くんば国即ち衰ふ(優れた人材がいれば国は栄え、そうした人材がいなければ国の力は衰えてしまう)」の信念の下、また、富国強兵、殖産興業のため、多くの分野で優秀な人材が求められていた事情を承知されていたこともあり、自ら修道学校の経営者となることを決意されたのです。この時に先生の決断がなければ、修道学校は時代の流れに押し流され、現在のような学校としては存続していなかったでしょう。
ここから「私学修道」としての新たな歩みが始まることになったのです。

1886(明治19)年、十竹先生は、長勲公から修道学校の魂ともいうべき校名の扁額と第7代藩主・浅野重晟(しげあきら)公自ら筆を執って書かれた「至聖先師孔子神位」の木主(孔子の位牌)、そして学校にあった教材・教具を受け継ぎ、広島市八丁堀の自宅で、独力で教育活動を始められました。学科は修身(道徳教育)、歴史、作文、数学、習字、体操の6科目。教科書にはイギリスやアメリカの本を使用することもありました。また学校の乏しい運営資金を投じて数名の生徒をアメリカ・サンフランシスコに留学させたこともありました。日本が諸外国と対等に渡り合える国となるためには、外国の学問、歴史や文化を学ぶことの必要性と重要性を、先生が認識されていたことが伺われます。

第7代藩主 浅野重晟公(左) 至聖先師孔子神位(右)
第7代藩主 浅野重晟公(左) 至聖先師孔子神位(右)

1889(明治22)年、教育勅語(きょういくちょくご)が発布され、忠君愛国が国民の道徳として定められるなど、時代は急激に教育を統制する方向に進みます。このような情勢の中、十竹先生は八丁堀の自宅敷地内に新校舎の建築を始められます。また1889(明治22)年、修道学校では、時代の要請もあって、国防に従事する優秀な人材を育成したいとの考えから、海軍兵学校受験のための予備科を新設しました。さらに1892(明治25)年には、陸軍士官学校受験のための予備科を開設するなど、積極的な教育活動により年々入学者が増加し、学校の活気を増していきました。

修道学校校舎
修道学校校舎
修道学校校舎

十竹先生の晩年、1897(明治30)年頃になると、国の教育拡張政策により、官公立の諸学校が次々に新設されました。官公立の学校の増加は、財政力の弱い私学にとっては圧力となり、修道学校もその影響を受け、次第に衰えを見せ始めました。「このままでは再び存亡の危機を迎える」と考えた先生は、学校の維持拡張のために奔走しましたが、この時期の広島は軍都としての様相を深め、物価が高騰していたこともあり、学校の経営は大変厳しい状況に陥ってしまいました。しかし「何としても学校を存続する」という強い思いの下、打開策として、昼間は普通学の授業を止めて漢学の授業を行い、夜間に中学程度の普通学を教える「修道夜学校」を設置することで、当面の危機を回避することになりました。さらに修道学校同窓会(1900(明治33)年設立)に入会した多くの卒業生による支援を得られたことで、学校の経営は再び軌道に乗る兆しが見え始めました。

学校内の組織も固まり、新たな歩みを始めた矢先の1901(明治34)年6月、十竹先生の母上が逝去されました。後に修道中学校の校長・理事長となる水山烈(みずやま・れつ)氏が著した「山田十竹翁小伝」には、早くに父上を亡くされた先生が、いつも母上を大切に考え、孝行を尽くされた様子が描かれています。そのような先生にとって、母上の死の悲しみは大変に大きなものであったようです。喪に服された先生は、お好きなお酒や料理を口にされず、また人に会うことも避けられるようになりました。家の人が先生の体調を心配し、食事をすすめても聞き入れられることはありませんでした。やがて病の床に伏された先生は、水山烈氏を枕元に呼び寄せ、修道学校の行く末を託されたのです。
そして、母上の逝去からわずか2カ月あまり後の1901(明治34)年8月26日、十竹先生は69年にわたる生涯を閉じられました。

水山烈氏
水山烈氏

幕末から明治へ、世の中の体制も価値観も、文字通り激動した時代に「人材あれば国即ち盛ん、人材無くんば国即ち衰ふ」の信念の下、その生涯を一途に人材の育成に捧げ、修道の発展に尽くされた山田十竹先生。幾度となく訪れる学校の存亡の危機を乗り越え、その使命を果たされた十竹先生こそ、290年に及ぶ修道の歴史を今日に繋いだ恩人であると言えるのではないでしょうか。
修道は藩校時代から、国を治め民の困苦を救うことができる指導者の育成を教育の目標に掲げ、学ぶ者に「おのれを修める」ことを求めてきました。その建学の精神「有為な人材の育成」は、歴代の藩主から十竹先生、そしてさらに後世の教育者へ、脈々と受け継がれているのです。

山田養吉先生門弟名簿

Column

山田養吉先生門弟名簿

十竹先生が亡くなられた後の1911(明治44)年、教え子によって発刊され、先生が多くの優秀な人材を育成されたことを伝える名簿となっている。加藤友三郎(かとう・ともざぶろう、海軍大臣、第21代内閣総理大臣)、村上敬次郎(むらかみ・けいじろう、十竹先生が江戸に引率した洋学生50名の1人。海軍軍人、男爵、貴族院議員)や花井卓蔵(はない・たくぞう、日本で最初の私学出身の法学博士。弁護士、衆議院副議長、貴族院議員)、下瀬雅允(しもせ・まさちか、下瀬火薬の発明者。工学博士、旧日本海軍技師)の各氏など、後世に名を残す人物の名も記されている。

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