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修道ヒストリア

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<第1回>
山田十竹先生(上)

修道中学校・修道高等学校の正門を入ってすぐ右手に胸像があります。まるで修道に通う生徒達を見守るかのように、プロムナードの入口に佇む胸像の主は、山田十竹(やまだ・じっちく)先生。修道の歴史を語るとき、決して忘れることのできない人です。

十竹先生胸像
山田十竹先生胸像

広島藩の藩校の流れをくむ修道は、1725(享保10)年に創始された「講学所」以来、300年近くもの歴史の中で、幾度かの存続の危機に見舞われました。中でも明治時代中期、学校を物心両面で支えてこられた旧藩主・浅野長勲(あさの・ながこと)公が、学校の経営から退かれなければならない事態に陥ったときは最大の危機でした。この時に校務一切を引き受け、多くの困難を乗り越え、学校を存続させたのが、元藩校の教師であった山田十竹先生でした。先生の決断と尽力がなければ、現在の修道の姿はなかったことでしょう。
今回は、“修道開祖の恩人”というべき山田十竹先生と、先生が生きてこられた江戸時代末期から明治時代へと続く激動の時代についてご紹介します。

浅野長勲公(左) 山田十竹先生(右)
浅野長勲公(左) 山田十竹先生(右)

山田十竹先生は1833(天保4)年、広島藩士の長男として生まれました。幼年期の様子については、詳しいことは伝えられていません。しかし、11歳の頃から藩の儒学者に教えを受け、16歳で学問所の句読師(くとうし…学問所で学ぶ者の中から優秀な人を任命し、生徒に漢文の素読を授ける役目)に登用されたことなどから、その俊才ぶりが伺えます。

旧藝藩学問所見取り図
旧藝藩学問所見取り図

十竹先生が20歳を迎えた1853(嘉永6)年、アメリカの遣日国使ペリーによる浦賀来航、いわゆる黒船来航事件が起こります。この事件に代表されるように、当時の日本は長く続いた太平の世に終わりを告げ、海外の脅威に直面する時代を迎えていました。江戸幕府の力が衰え、尊王攘夷が叫ばれる中、1854(嘉永7)年に日米和親条約が結ばれ、日本は開国。さらに1858(安政5)年に、不平等条約として明治時代に大きな課題を残した日米修好通商条約が結ばれました。また、吉田松陰ら幕府の政策に反対した人々が弾圧された「安政の大獄」と呼ばれる幕末の動乱期の中で、先生は多感な青年期を過ごされたのです。

29歳の十竹先生が学問所付に任ぜられた1862(文久2)年頃、日米修好通商条約のような不平等条約を結んだ幕府の弱腰な姿勢を非難し、朝廷の権威を高めて外国勢力を撃退しようという尊王攘夷運動が、ますます高まりを見せていました。国の将来を憂う諸藩の動きの中で、十竹先生は重罪とされた脱藩を覚悟で、藩主を助け国の力になることを友人達と誓い合いました。その熱意は藩の重臣に伝わり、以後、先生はさまざまな藩命を受け、その力を発揮されることとなります。しかし、藩と国のために懸命に働く中で、先生は大切な仲間や実弟を失いました。つながりの深い、若く有為な人材を失った悲しみと無念の思いが、「人材あれば国即ち盛ん、人材無くんば国即ち衰ふ(優れた人材がいれば国は栄え、そうした人材がいなければ国の力は衰えてしまう)」という信念につながり、先生がその生涯を人材育成に捧げる礎になったのでしょうか。

1864(元治元)年、1866(慶応2)年の2回にわたる幕長戦争や1868(慶応4・明治元)年に始まった戊辰戦争など、時勢は騒々しく、戦乱の様相を見せていました。十竹先生が藩命による江戸遊学(洋学教育の必要性を感じた藩が、藩士の子弟を中心とする若者を選抜し江戸に遊学させた)引率中の1867(慶応3)年は、大政奉還の成立、坂本龍馬の暗殺、王政復古の大号令という、まさに近代日本の歴史的な出来事がたて続けに起った年でした。このような激動の日々にあっても、また西洋かぶれとして世間や周囲の嫌がらせを受けても、「国の内外の形成を考えると、西洋のことを知らないでどうして安心していられるのか、西洋を学ぶ機会を逃してはならない」と、先生は自身の信念に従って後進の教育に情熱を傾けられていました。

1868(慶応4・明治元)年、幕末の動乱期に中止されていた広島藩の学問所学塾が、十竹先生の意見を採用して再興され、先生は塾生寮の塾頭を務めることになりました。そして2年後の1870(明治3)年、広島城内三之丸にあった学問所は現在の広島市中央図書館付近に移転し、名称も「修道館」と改められました。現在の修道の名は、この修道館が起源なのです。ところが、翌1871(明治4)年、廃藩置県によりこれまでの藩が廃止され、府県となり、教育事業も県庁の所管となりました。また全国一定の学校制度が発布されたことにより、旧藩主による各地の諸学校はいずれも廃止されることになったのです。修道館も例外ではありませんでした。

1872(明治5)年、十竹先生は東京に赴き、1874(明治7)年に海軍兵学校(当時は海軍兵学寮。1876(明治)9年に海軍兵学校に改称)の教官に就任されました。後に、広島出身で初めての総理大臣となった加藤友三郎は、入学年から推測して先生の教えを受けていたと思われ、「山田養吉(十竹先生の別名)先生門弟名簿」にその名前があり、先生の頌徳碑(しょうとくひ…徳を称える言葉を刻んだ石碑)の篆額(てんがく…石碑の上部に篆字で彫った題字)を書くなど、先生との関わりが深かったことが伺われます。

加藤友三郎氏
加藤友三郎氏 銅像(広島市中央公園)

海軍兵学校時代も十竹先生は、人材育成への変わらぬ情熱にあふれていました。昼間は海軍兵学校の教官として授業を担当し、夜間は「十竹塾」を開いて多くの学生を教えていました。また執筆活動にも精力的に取り組み、日本の歴史を記した「日本志略」、日本の歴史・地理において、生徒が暗記しておくべきことをまとめた「諳誦事類(あんしょうじるい)」、後に多くの学校の教科書にもなった「明治小学」を完成されました。これらの著書の多くは、親しみやすい形式で書かれ、初めて学問に触れる人たちの学習に役立つものでした。

暗誦事類
暗誦事類

Column

明治小学

1879(明治12)年発刊。南宋の朱子が編集した「小学」を参考に、昔の人の言行を採り上げて、初学者に道徳について教えるための教科書。修身篇、父子篇、君臣篇、夫婦篇、長幼篇、朋友篇の6篇で構成されている。朱子の「小学」と異なる点は、広く日本、西洋、東洋にわたって教材資料を集めていることで、西洋の題材を漢字文体で表現してあるところに漢学者であった十竹先生の先見性を見ることができる。「明治小学」の版木は修道中学校・修道高等学校記念品室に全て揃って保存されており、印刷技術の歴史を知る上でも貴重な資料となっている。

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