修道学園・学校案内2018
4/36

03修道学園は1725(享保10)年、広島藩主浅野吉長(よしなが)が白島稽古屋敷の一部に「講学所」を創始したことを起源としています。また、「修道」という校名は、広島藩7代藩主・浅野重晟(しげあきら)が城内三の丸に開設した「学問所」を、1870(明治3)年に12代藩主浅野長勲が城内八丁馬場へ移して「修道館」と称した時に始まりました。中庸(儒教の経典「四書」の1つ)の「天の命 これを性といい、性に率う これを道という」に続く「道を修むる これを教えという」のことばから名づけられました。広島藩最後の藩主・浅野長勲は、1871(明治4)年の廃藩置県による藩校「修道館」廃止後も、私財を投じて「浅野学校」を設立するなど、広島の教育に大きな功績を残しました。長勲は、元藩校の教師であった山田十竹を校長として迎え「修道学校」と改名し、校務一切を十竹に託しました。その後、やむなく学校経営から手を引いた長勲から十竹が学校を受け継ぎ、八丁堀の自邸で「修道学校」を開きました。十竹は「人材なければ国盛んならず」の信念のもと、多くの困難の中、教育に生涯をささげました。浅野長勲と山田十竹浅野 長勲 (1842〜1937)山田 十竹 (1833〜1901)浅野 長武 筆〈沿 革〉1725(享保10)年1734(享保19)年1743(寛保3)年1782(天明2)年1863(文久3)年1870(明治3)年1871(明治4)年1878(明治11)年1881(明治14)年1886(明治19)年1905(明治38)年1907(明治40)年1926(大正15)年1938(昭和13)年1945(昭和20)年1947(昭和22)年1948(昭和23)年1957(昭和32)年1978(昭和53)年1995(平成7)年2000(平成12)年2001(平成13)年2002(平成14)年2003(平成15)年2008(平成20)年2010(平成22)年2011(平成23)年2012(平成24)年2013(平成25)年2014(平成26)年2017(平成29)年広島藩5代藩主浅野吉長は白島稽古屋敷の一部に「講学所」を創始し、寺田臨川に学政を総督させる。寺田臨川「学規三則」を示す。(広島藩藩校の創始・創立記念日の由来)「講学所」を「講学館」と改称する。経費節減令によって「講学館」が休学となる。7代藩主浅野重晟により「学問所」が広島城内三の丸に興される。山田養吉(十竹)を登用する(塾頭に任じられる)。学制を改革し、学問所を城内八丁馬場に移し、新たに「修道館」(修道学園の名称の起源)と称する。廃藩置県のため休業となる。12代藩主浅野長勲が泉邸内に「私立浅野学校」を設立。(「修道館」の継承)学制を改革し、山田十竹を校長とし、「修道学校」と改称する。山田十竹は「修道学校」の経営を浅野家より引き継ぎ、自宅で教授する。水山烈を設立者とし、「財団法人修道中学校」発足。水山烈、初代校長となる。南竹屋町へ移転。南千田町に移転し、現在に至る。初代「敬道館」の建設。山田十竹の銅像を建立。学園創立200年記念式典。原爆により校舎の大部分が倒壊する。学制改革により新制中学校を設置。(現修道中学校)新制度による修道高等学校を設置。学園創始233年、私学80年を記念して「修道学園史」刊行。学園創始233年、私学80年記念式挙行。学園創始253年、私学100年式典。「修道学園史」刊行。本館・体育館等の新築、既設校舎・プール等の大改築。学校週5日制(月2回土休)を実施。被爆50周年慰霊式典実施。記念誌「流光」刊行。平山郁夫画伯より「原爆ドーム」の絵画の寄贈を受ける。北館完成。(第1期工事)南館(西)完成。(第2期工事)南館(東)完成。(第3期工事)新敬道館完成。(第4期工事)  4月 制服の改定。学校週5日制を実施。テニスコート・球技コート・弓道場完成。(第4期工事)  8月 メイングラウンド改修工事完了。(第4期工事)平山郁夫画伯創作の原画「希望の光 安芸の小冨士」の陶版画が同窓会より寄贈される。本館ロビーに設置。本館耐震化および改修工事実施。総合体育館完成。「修道開祖の恩人十竹先生物語」刊行。「修道学問所之蔵」(旧広島城郭内の蔵)移築・復原工事が始まる。「修道開祖の恩人十竹先生物語」改訂版刊行。メイングラウンド人工芝工事、球技コート改修工事完了。「修道学問所之蔵」完成。プール完成。11月4日12月10月2月8月6月11月4月4月1月3月11月8月4月5月11月10月4月8月7月7月7月3月5月9月8月3月4月4月11月9月8月3月1700180019002000

元のページ  ../index.html#4

このブックを見る