修道学園通信 vol.114
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11 ・ 粟津公:粟津高明。兵学校の先生。この人のところには度々行っている。1834年(天保4年)生まれの先生より5歳年下。桂二郎とも称す。膳所藩士の子。明治元年(1868)に横浜で洗礼を受ける。明治6年、築地に東京公会を組織し、ついで麻布の自宅に新しく日本教会を創立。ここで毎晩、説教。明治2年(1869)大蔵省に出仕。後のちに海軍兵学寮で英語を教授するかたわら明治7年ごろから日曜日に幼年生徒へキリスト教の講義をする。独立伝道者としての生涯を送る。明治13年(1880)10月に逝去。43歳。  「三月四日 木 晴 渡六之助が来る田中正雄小伝を釐正(正しく、修正し改める)してもらいたいと頼まれた。」 * 渡六之助 慶應2年11月、山田養吉先生が洋学生50名を引率して江戸留学された時の一人。六之助は後に「正元」と改名。私費留学中に遭遇した普仏戦争の観戦記「巴里漫遊日誌」の普仏戦争の分析評価が認められ、軍人から法制官に転じ、さらに立法官に転じている。実弟の正雄は、広島藩の藩士。勤王討幕の大義を主唱、江戸において幕府の事情を探索中、幕吏に捕らえられ、獄中で従容として死去した。た者、弾丸を受けた者、まかり出て歩くことができない。みっともなく路に臥す者。白旗を腰に挿して馬上で身を縮めている者。死んだ者のように伏せっている者。甲を脱いでそれを背負っている者。甲を脱いで馬の背で縮こまっている者。馬がまかり出て歩くことができないような者。縄で刀十数をまとめて背負う者。折れた鋒を提げている者が連なって帰ってくる。時には戰いの服・はちまきで首に矛を提げて西に逃げる者も亦ぞくぞくとして絶えない。思うに紀州公の兵が戰に臨んだのである。帰り道、城中を通り過ぎる。わが藩の兵が、丁度この夜集結しようとしている。わが藩兵で、南門の側の社に集結していた者は、古江に向け出動する。この夜、青山公(浅野長厚)も亦馬を急ぎ馳せて吉田(安芸高田市:吉田の本館)に帰り、これを保守する。家大人(家長・山田養吉の父)は、朝獄府に行き、明くる朝、未明に帰る。* 日記のこの箇所の叙述は、実際に山田養吉先生が目撃された情景である。日記には、戦闘場面が叙述されているが、それらは殆ど聞き書きである。しかし、この部分は肉眼で捉えられたものだけに迫力がある。貴重な資料と言える。3 十竹軒日録 ア 慶応戊辰改元明治元年(1868 )          【36歳】八月一日~十二月二十八日        イ 明治二年一月一日~四月三日        ウ 明治四年八月四日~九月十四日  このグループでは、明治四年八月四日の記述が注目される。これが、いわゆ明治四年辛かのとひつじ未(187Ⅰ)【39歳】る「武一騒動」につながっていく。 藩主の引き留めの運動「八月四日  竹舘公(浅野長ながみち訓)松園(浅野懋としつぐ續・内記 長訓の弟)二公及び二位公(浅野長勲)夫人らが東京に移住されようとした。午前四時ごろ、私はまだ蒲団の中にいた。 門の外を走り過ぎる者がいる。その者たちが起きろ、起きろと叫ぶ。しばらくしてまた走り過ぎる者がいる。 皆出てみよ。 皆出てみよと叫ぶ。私は驚いて〉『四時に私塾白島に開く』の記述あり]が知らせて言うには、 民衆が竹舘公の上京を抑え留めようと謀っている、と。そこで、某を訪ねる。そして告諭 (広く民衆に告げ諭す)の方策を説明する。」4 十竹軒日録2 ・明治八年(1875)【43歳】一月一日~十二月三日 海軍兵学校時代 春子誕生● 「二月十四日日晴 女の子が生まれて七日目なので春と命名する。女の児が生まれ、七日目の七夜に当たるので、「春」と命名する。祝い酒を飲んで酔うて臥す。」*春さん 先生の二女粟津公の聖書講義● 「一月廿日土暮曇り 粟津公の聖書講義に招かれる。出席した者九人」 「七月十七日 土  晴 粟津氏のところに行き、講義を聴く」 5 十竹軒日録3 丁亥・明治廿年(1887)一月一日~十二月三十一日 【55歳】   この日記を最初に学園の「紀要」に紹介した時に、「修道学校の経営を引きついでの日々」と副題を付けている。明治十九年、広島県の設立した広島中学校が、広島尋常中学校と改称され、それを機に浅野家が修道学校経営から手を引かれることに至り、山田養吉先生が修道学校を廃校することに忍びず、八丁堀の自宅でこれを引き継ぐ決意をされた。残念なことに、この明治十九年の日記が遺されていない。 明治廿年の日記から新たに学校経営に取り掛かられた様子が窺える記述を紹介する。●「五月五日 第一第二教場が完成した。授業を始める。やって来た者は三十二人である。淺野氏に招かれた」 * 「修道学園史」(昭和53年版)に「明治二十年(1887)三月二十日校舎の建築に着手して、五月四日十二の教場が落成したので、翌五日から授業を始め、二十五日には校舎のことごとくが落成した。塾も改築に着手したので、塾生を第四教場に移したが、三十一日落成して塾生を塾にもどし、本授業が行われるようになった。」と記されている。砂本捨吉氏●「九月二十三日 二、三日前、砂本貞吉か外国の人二名を連れて来た。『あなたのおうちの前を通ったので、お目に掛かってお話しし、かつ、あなたのもとに西洋の婦人をお連れして来ようと思っている。彼女は住むに適した家が見つからなくて困っている。この辺りに大きくて住むによい二階つきの家がありはしないだろうか』と言う。この夕べ、暇でであったので、かけずり回って探し、中の棚に一軒見つけた。このことを砂本に伝える。」 *砂本貞吉  安政三年(1856)~昭和十三年(1938)牧師。広島女学会(広島女学院の全身)創立功労者。広島メソジスト教会(日本基督 教団広島流川教会の前身)の創立者で初代牧師。己斐(現広島市西区)に生まれた。 ・ 「六月廿三日 淺野忠が正二位公の命令を伝え、公の欧州日録一巻をいただく。」 * 明治15年に浅野長勲公は、イタリア公使として洋行された。その時の日録である。6 十竹軒日記 戌子・明治廿一年(1888)一月一日~十二月三十一日【56歳】  「八月廿八日 お出迎えのため、修道校生を引率し、二位公(浅野長勲)を宇品に迎える。この日陽が翳っていて熱気がカッカッとはしない。炎熱の中遠路の往復は熱気に苦しむ。」7 十竹軒日記 [自 明治廿二年 至 明治二十五年](明治廿三年の日記は欠落)表には上記のようになっているが、明治廿五年1月1日から12月31日まで日記も収録されている。 ア   明治廿二年(1889) 一月一日~十二月三十一日【57歳】実弟の死●「一月十四日 新年を祝う。午前、帰宅。日野正一からの知らせがある。それによると、「迪吉君は、昨年十月より病に罹っているが、一旦は治癒した。それで、河内の国で布教していたが、病気が再発した。今、なお河内の国茨田郡恩地村の松田氏のところで療養している。しかし、大変に衰弱しているのになおも医薬を服用しようとはしない。どうかこの状態をしっかり見てもらいたい」というものであった。わたしは行ってこの様子を見たいと思う。しかし、母上は、学校のことを放っておいていくのには賛成されない。母上が行ってこれをみたいと言われる。しかし七十歳の老人を独り行かせるようなことはしたくない。 *迪吉 山田養吉の弟。明治廿二年一月十三日に病死している。   (明治23年は、欠落) イ 明治廿四年(一月一日~十二月三十一日)【59歳】 ●「三月十九日 晴 松田佐七・坂上仁作来が来る二人は迪吉の弟子である。夜、弟子の講話を聞きに来たの者は五人。」 ウ 明治廿五年(1892)(一月一日~十二月三十一日)【60歳】  ・ 「六月十九日 晴 山陽先生祭典を白神社で挙げる。参拝者は四百七十人。」 * 頼山陽没後61年。河野小石、山田養吉の首唱で行われた。祭典を白神社で、遺墨・献詠展覧会を国泰寺で開いた。(「頼山陽全伝下)8 十竹軒日記 [自 明治廿六年 至廿八年]【61歳】 ア  明治廿六年(1893)61歳癸巳正月二十六年一月一日~十二月三十一日(途中欠筆)    「校長河内信朝に面会する。ついで上司渕蔵を訪ぬる。土肥健之助訪ねる。辻吉弥を訪ねる。隅本有尚を訪ねる。河内信朝を邸に訪ねる。遂に池田勝太郎の要請に応じ、再び彼を訪ねる。文槌が高等中学生登張信一郎とまたまた陪席する。」 *登張信のぶ一郎 1773年(明治6)~1955年(昭和30)号は竹風。ドイツ文学者。評論家。広島県江田島に生まれる。広島中学(現・国泰寺高校)、山口高等中学校を経て、東京大学卒業。母校の旧制山口高等学校教授として赴任。同僚に西田幾多郎、教え子にやがて法科に転じた河上肇やドイツ文学者として当時知られた片山孤村がいる。同年代の姉崎嘲風・笹川臨風と並び、明治の三風として聞こえた。ニーチェをわが国に初めて紹介、また初の独和辞典「大独和辞典(1913年の)編纂で知られている。 イ 明治廿七年一月一日~十二月三十一日【62歳】子息・悌吉の死    「九月四日 晴。火曜日。廿一連隊に行き、靖献遺言を講義する。半夜看病する。悌吉がわたしと妻に言うには、『日中とんぼ捕りました。お母さんが禁じていた濠に入って蓮の実を採りました。お母さんがしてはいけないと言われていたことに従いませんでした。みな自分が悪いのです。この罪を冒しました。これまで 嘘を言っていたことも皆罪なのです』という。眠っているような者を撫でてやると間もなく冥府旅立った。」    *悌吉は赤痢に罹ったのである。 ウ 明治廿八年(1895)63歳一月一日~十二月廿九日【63歳】●「一月三日 晴。木曜日。松島哲朗が来る。薬研堀に青楼を築く事を話す。わたしは大いにそのことで風俗を乱すことを心配する。津川顕蔵・有末清次郎を訪ね、このことについて相談する。」 * 「伴資健日記」(「新修広島史」)に「一月三日(前略)山田養吉來ル、此レハ市内ノ中央ナル下柳町付近ヘ遊郭地設置ノ旨ヲ聞ク、果シテ眞ナルカ、如此(この如き)醜体ハ市外スラ好マザル処、況ヤ市内ノ中央に設ク、市民ノ風儀に関スル大ナリ、其ノ位地変更ノ事ヲ県知事ヘ陳述セントス、然レドモ中央ヲ以書き可トスルノ理由アリヤト」記されている。山田養吉先生がこの事について憂慮されていたことがうかがえる。 *終わりに別人の筆で「以下廿九年日記失以前可惜」と記されている。9 十竹軒日記 「自 明治三十年 至明治三十四年」と表紙に書かれているが、採録されているのは、すでに何かが書かれている紙の裏を使って記されたものである。   最初に「辛丑春正月元日」と書いてあり、以後簡単な記述が続いている。日付だけのところがあるが、一応明治34年8月13日まで書かれている。先生は、8月26日に亡くなる。 A 明治30年(1897)【65歳】 二月十五日 雨。月。丸山絹女を聘(まね)き、婦人会の客人とする。名前を睦子る。家内のキタの名と音が似通っているからだ。」絹女●山田養吉先生の夫人、キタさんの姪に当たる。キタさんの兄、閏之助(じゅんのすけ)さんとフミさんの子ども。明治14年1月1日生。「キタ」と「キヌ」と、発音して紛らわしいので「睦子」と改名した。なお、キヌさんは先生の二男、二郎さんと明治30年7月22日に結婚している。  B 明治31年(1898)66歳 C 明治32年(1899)67歳 *現在、ここまで翻刻している D 明治33年(1900)68歳 E 明治34年(1901)69歳 以上、現在保管されている先生の日記の概略を述べた。これらの日記は、近年レジタル化されている。翻刻は間もなく終わろうととしているが、誤っているところや不十分なところが多々ある。将来、より充実した内容に補完されることを祈ってやまない。☆写真の説明明治20年の日記の表紙と、6月12日から26日の記述26日に浅野忠が正二位公(浅野長勲)の命を伝え、(イタリア公使として渡欧された時の日記)欧州日録一巻を賜ったという記述」があります。

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