10されていた9. 十竹軒日記「自 明治三十年 至 明治三十四年」と表紙に書かれているが、採録されているのは、すでに何かが書かれている紙の裏を使って記されたものである。 最初に「辛丑春正月元日」と書いてあり、以後簡単な記述が続いている。日付だけのところがあるが、一応明治34年8月13日まで書かれている。先生は、8月26日に亡くなられている。D 以上が現在、修道中学・高等学校が保管している山田養吉先生の日記であるが、これ以外には日記はなかったのか、という疑問が残る。これに関しては、「十竹軒日録」 自慶應戊辰八月朔日 改元明治と書かれている表紙に続く次のページに八月朔日として日記が書き始めてある。その前に、次のようなことが書かれている。 「明治日録已に六七歳理おさ(ととのえ)む。行事、経歴略ほぼそな具う。自分は日録をすでに6、7年つけており、行事や経歴などほぼ書き留めている。」と書かれている。「十竹軒日録」 自慶應戊辰八月朔日 改元明治と書かれている表紙に続く次のページに八月朔日として日記が書き始めている。その前に、次のようなことが書かれている。現代語訳で示す、 「わたしは日録整理し始めて6,7年になる。行事・経歴は、ほぼ整った。慶應2年4月江戸で職務につき、八月になって帰国した。その後、また11月1日に江戸に遊学し、あるいは、勿堂若山先生の処に寄寓した。京洛の騒擾に遭遇し、辛うじて身一つで脱出した。今年2月17日に西(広島)に帰る。所蔵していた書籍、歴史・経書の巻き巻きからメモ・雑文に及ぶまで一切を海運船に委託して帰る。(中略)4月18日、田中覺太郎が便りを寄こし、それには海運船が伊豆沖の海に沈没したと書いてあった。ああ、成人して以来、取り集めてきたもの、心血を注いで書いてきたもの一切が海底の岩に付着した。これを痛み、悲しむことがどうして軽かろう。悲しい限りだ。「わたつみの波間の神のいかなればわが水茎の跡ぞ恋せし」日録もまた沈むに任せるまま。残るものは後にも先にも書きとどめたもの一巻だけ。(中略)私は学校の儒員(儒学の先生)を拝命する名誉を与えられたが、すべてのことに挫折し、残念に思い、怖れひるむあまり、また日録を記そうと思うものの、文章を書く気力は萎え、くじけている。無心に筆をとるものの、長く怠っていたため、なかなかうまくいかない。決然としてこれから以後筆を執る」以下略すが、先生が悲痛な思いをされたことが伝わってくる。 山田先生が非常に悲嘆されていることが伺える。E それぞれの年の日記のなかでいくつかの記述を紹介する。Ⅰ「乙丑日記」(元治二年・慶応元年(1865)四月一日~十二月二十九日)【33歳】、先生の大酔●「十月朔日 朝勉めて起きる。餘醒未だ消えない。(いわゆる二日酔いの状態)。羽衣及び袴、或ひは泥に塗まみれ、或ひは裂く。其の状さま酔って泥中に倒れたもののようであって、わたしは皆忘却している。ああ、酒を飲んでも取り乱すようなことにならねば良い。わたしは、飲酒する毎に殆ど一升。こうした醜態をさらす所ゆえん以である。今後、誓って酒を断ち、父母兄弟の心を安心させるばかりである。ああ、飲酒の欲望は意志の弱さであって、災いをもたらす。このことは、酒を飲まないことが何よりの薬であり、酒を飲まないで失敗することない気楽さには及ばない。なお且つ、大丈夫たるもの、口や腹を楽しませることだけに心を寄せるだけの者となるのは、また甚だしく愧はずべきことなのだ。今よりの後、酒を断つことができなければ、その時は、むしろ腹を剖(さ)いて死ぬばかりだ。 慶應元乙丑十月二日 廸吉」●「二十九日、黄幡社(比治山神社)と白神社の祭りにお参りに行き、夕方山下氏の所に行って大いに飲酒し、山下氏と一緒に白神社に行く。大酔して覚えず帰る。」と書かれている。この日の日記は、廸吉(養吉先生の実弟)が代筆されたものであろう。2「丙寅日記」(慶応二年六月朔日~八月十六日) 幕長戦争の記述(現代語訳)慶應二年(1866)六月十四日 晴【34歳】●「今日昧まいそう爽(みめい)井伊・榊原の兵進みて敵境に入る。今や大敗す。走兵鋒(敗走兵の先端)、既に草津の海に迫ると云ふ。乃ち約(約束)を変じ登城す。安藤君に面す。之に尋ぬるも亦不詳なり。」(これに続く)帰り道、一丁目街の紀州公の本陣(征長軍総督紀伊大納言徳川茂徳の御用屋敷を本陣としていた)前を通り過ぎる。兵士がたくさん入り混じって、ごたごたを極めている。夜、松斎兄と木原氏の所に立ち寄る。また行く先を変えて山下君を加えて三人と市中を通り過ぎる。榊原、井伊の敗卒が今や帰ろうとしている。その敗軍の醜態は見るに耐えない。刀・鎗の武器で傷を被っ 2004年(平成16)5月、山田十竹先生の三男の山田有秋氏のご子息山田弘秋氏から山田十竹先生の遺品及びゆかりの品々が多数修道中・高等学校に寄贈され、その整理を学校から依頼された。退職して間もないわたしは、かねて学校に所蔵されていた先生の日記を読んでみたいと思っていたので、これを機に先生の日記の読み解きを始めた。 この時、寄贈されたのは、先生直筆の日記・短冊・書簡の類。 同好の士との漢詩集。お子さんの使用された教科書などあった。 A 寄贈された日記は、5グループにまとめられている【1】 乙丑日記(元治2年・慶應元年(1865)【4月18日に改元】(4月1日12月29日)【2】 十竹軒日録(慶応・戊辰改元・明治元年八月一日~十二月二十八日) (明治二年一月一日~四月三日) (明治四年八月四日~九月十四日)【3】十竹軒日録 明治八年 【4】十竹軒日録 明治廿年【5】十竹軒日録 明治廿一年 B 修道中学・高等学校が以前から収蔵していたもの 漢数字は、ひとまとめグループ ① 丙寅日記 慶応二年六月朔日~八月十六日 一 ② 十竹軒日記 明治15年 二 ③ 十竹軒日記 明治22年 三 ④ 十竹軒日記 明治24年 四 ⑤ 十竹軒日記 明治25年 五 ⑥ 十竹軒日記 明治26年 〃 ⑦ 十竹軒日記 明治27年 〃 ⑧ 十竹軒日記 明治28年 〃 ⑨ 十竹軒日記 明治30年 六 ⑩ 十竹軒日記 明治31年 〃 ⑪ 十竹軒日記 明治32年 〃 ⑫ 十竹軒日記 明治33年 〃 ⑬ 十竹軒日記 明治34年 〃 C AとBの日記に年代順に整理してみると以下のようになる。 (○印が寄贈された日記)①乙いっちゅう丑日記 元治二年・慶応元年四月一日~十二月二十九日 2丙へいいん寅日記 慶応二年六月朔日~八月十六日③十竹軒日録 慶応・戊辰改元 明治元年八月一日~十二月二十八日 明治二年一月一日~四月三日 明治四年八月四日~九月十四日④十竹軒日録 乙亥・明治八年一月一日~十二月三日5 十竹軒日記 明治十五一月一日~五月十三日(元は明治廿五年~明治廿八年にまとめてあった) 記述が年代的にそぐわない。明治15年の日記であると判断した根拠は3点。 a. 「二月十六日 夜新聞を読む。曰く、開拓使を廃し、二月八日、函館・札幌・根室に三県を置く」と書かれている。開拓使の廃止は明治十五年 b. 先生の子息「会二」さんの命名の由来が「四月六日 家内分娩する。男子を生む。この子の会二と名付けて、聖詔がれた二年目にあたる」とある。*国会開設の勅諭が発せられたのは、明治14年。10月12日。明治15年は 第2年にあたる。そのおよそ10年後を期して国会を開設することが述べられている。 c. 浅野長勲侯がイタリア公使として出発された年。*五月十三日の日記に「公(浅野長勲公)の洋行将に六月三日を以て発つ」と書かれている。洋行は、明治十五年 ⑤十竹軒日記 丁亥 明治廿年一月一日~十二月三十一日⑥ 十竹軒日記 戌子 明治廿一年一月一日~十二月三十一日 *⑤・⑥は、ひとまとめで表紙がつけてある。7. 十竹軒日記 表紙に[自 明治廿二年 至 明治二十五年]なっているが(明治廿三年の日記は欠落) ・明治廿二年一月一日~十二月三十一日 ・明治廿四年一月一日~十二月三十一日 ・明治廿五年一月一日~十二月三十一日 8.十竹軒日記[自 明治廿六年 至廿八年] ・ 明治廿六年癸巳正月二十六年一月一日~十二月三十一日(途中欠筆) ・明治廿七年一月一日~十二月三十一日 ・明治廿八年一月一日~十二月廿九日 *明治十五年の日記(明治十五年一月~五月十三日)このグループに収録山田養吉先生の日記修道学園史研究会 畠 眞實(高校7回)修道の歴史
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