修道学園通信 vol.112
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H of istorySHUDO・後藤松軒(1803年:享和3年~1864年:元治元年) 松眠の息子。長崎の吉雄塾で蘭学を学ぶ。高野長英と出会う。シーボルトの愛弟子の一人。松軒が25歳のとき父・松眠が亡くなり、急遽広島に帰り、父の医業を継いだ。父の後を継いで日渉園の管理をする。 1828年(文政11)シーボルト事件が起こる。逃亡した高野長英は文1829年(文政12)広島に松軒を訪ねる。広島へは二度目である。1839年(天保10)、蛮社の獄(蛮社=洋学仲間:江戸幕府が洋学者のグループ加えた弾圧事件)で囚われた後、脱獄してお尋ね者となり匿われていた宇和島出た高野長英は、1849年(嘉永2)、松軒を頼り日渉園内の神農堂に潜伏していた。吉村昭の小説「長英逃亡」にも書かれている。そのため後藤家は藩主より7年間扶持料差し止めの咎を受けている。*神農堂は、薬草の乾燥室。(*神農:中国古伝説の帝王。三皇の一人。人身・牛首で、人民に耕作を教えたという。)いうのは後藤静夫の雅号である」という記述があった。躋寿館というのは、病院の名では後藤静夫先生のことをいうのである。後藤静夫先生のところに行って薬をもらったということである。 もう少し十竹軒日録を読んでみる。明治28年9月1日晴 日曜日の記述。「(前略)下痢したくなる。足の踵を以て肛門を押さえてかしこまって座る。それで下痢しなくなる。行動することが病気に及ぼす弊害を感じる。この日医師に診てもらっているのであるが、診察してもらい、薬をもらう。そして山慈姑一椀を手に入れて帰る。(以下略)」山慈姑というのは、アマナ(甘菜)で、清熱・解毒・散結などの作用がある植物である。続いて9月2日の日記に「晴。月。朝、医師に強く訴えて言う。『腹痛が依然としてあります。一昨日も下痢しました。熱があるように思われます。ご厚情をいただいて済みませんが、また回診してください。今度診察していただければ、甚だ幸いです』と。後藤先生が答えて言われるには、『わたしは忙しい。代わりとして〝豚児"に行かせましょう』間もなく先生の息子さんが来てくれる〝豚児"と言われた、後藤静夫先生の子息については、名前が記されていない。はっきりとしたことが分からないが、気になる記述がある。「9月11日 晴 水曜日。後藤静夫家の墓にお参りする。かれの子息の死を悼むためである」この「かれの子息」という人が「豚児」と後藤先生が言われた人であると考えるのが一応妥当だと思われる。 元広大学長の原田康夫先生の書かれた「広島の医学 偉人物語(4)の後藤松眠・後藤家の人々と日渉園」という著書で、後藤家の系譜を紹介されておられる。それによると、静夫の子息は、長男節太郎、二男易二郎、三男英三郎、四男倫四郎となっている。二男以下は、その夫人の名が記されているが、長男の節太郎にはそれがない。亡くなられたのは、あるいはこの方であったのも知れないと推測するのであるが、はっきりしたことをまだ突き止めるに至っていない。なお、四男の倫四郎は、第三高等学校医学部(岡山医専の前身)卒業後父の後を継いでいます。さらにその子息、文彦が昭和4年愛知大学・名古屋医科大学を卒業後、広島で昭和20年9月に市立舟入病院の院長になっている。 以上が、十竹軒日録に記されている後藤静夫氏と氏に関連した明治期の広島の病院等の事情の概略である。 なお、静夫の父、松軒と祖父松眠のことについても詳述したいが、紙幅の関係もあり、以下の「補注」に委ねたい。補注 ・後藤静夫の祖父、後藤松眠(1755:宝暦5~1828:文政11)は、広島県山県郡筒賀村の森宏達の嗣子(しし・跡継ぎ)として宝暦5年(1755)生まれた。松眠は京都・長崎に遊学し、京都では、九条家の典医であった後藤正賢の門下生として学んだ。松眠は志が高く、修学に励み、乞われて後藤正賢の養嗣子となり、後藤松眠を・身幹儀(星野木骨) 寛政8年(1792)安芸国広島の町医者星野良悦(1754~1802)によって作られた。良悦は、下顎骨関節脱臼の治療の秘法を懇請しても教えてもらえず、意を決して、自分で頭蓋を得て、その構造を理解し、施術に成功した。良悦の住んでいた堺町からほど近い、舟入村の竹の鼻という所に藩の作事所があり、その奥に徒刑場があった。処刑された遺体を藩から下げ渡された。それを解剖して工人・原田孝次に木で模刻させ、およそ200日目で木骨が完成した。(片岡勝子―「身幹儀」(星野木骨)の制作過程に関する研究―より)平成16年(2004)6月、国の重要文化財に指定された。木骨は2体つくられ、1体は、幕府の医学館に献上した。(これは行方不明)最初に作られた木骨は、良悦の死後、後藤家に託された。広島に原爆が投下されたときには、横川の本邸から日渉園に移されていたため被災を免れた。長らく広島県立美術館に保管されていたが、後藤家の厚意により平成6年に広島大学医学資料館に寄贈された。*後藤松軒は、高野長英の世話するにあたり良悦の協力を得ていた。そのような関係から後藤家に身幹儀が保管されるようになったと思われる。称している。蘭学・本草学にも精通していた。養父である正賢が亡くなってのち広島藩に招かれて帰郷し、藩主の御側医師になる。住まいを横川に構えていた。 松眠は、寛政10年(1798)、広島藩の藩命によりよって薬草園を開いた。それが「日渉園」である。 日渉園は、可部線三滝駅の近くにある。諸種の薬草が栽培され、「百楽園」とも言われていた。日渉園は、園の中心に住居と庭園があり、その周囲に約8800平方メートルの薬草地があったと言われる。薬草地は、西側が乾燥地、東側が湿潤地で、それぞれに適した薬草が栽培されていたといわれる。11

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