山田養吉先生の日記に読んでいると、後藤静夫とういう方の名前が出てくる。この方について調べていくうちに、広島藩の医療事情、ついで明治時代からの広島の病院の歴史について、その一端を窺い知ることができた。そのことについて記してみたい。 山田養吉先生の日記で、現在保管されている一番古いものは、1865年(元治2年・慶応元年)の乙丑(おっちゅう)日記である。次いで慶応2年の丙寅(へいいん)日記。そして明治元年の8月1日から、途中欠落があって、明治4年9月14日までの日記がある。ついで数年のちの明治8年の海軍兵学寮時代の日記が残っている。明治10年から明治20年までのあいだでは、明治15年を除いては保管されていない。明治20年からは、23年を除き、明治28年まで一応一年を通して保管されている。 そうした日記の中で、後藤静夫という名前は、明治28年の8月の日記に記されている。29日の日記に「晴。木曜日。右腹にわずかな痛みを感じる」と書かれ、翌日30日には、「晴。金曜日。後藤静夫のところに行き診察を受ける。『腹にわずかに痛みを感じます。最近、気づいたのですが、夕方に家の周囲を掃いています。それで痛みを感じるのでしょうか。あるいは、毎朝、米を舂(つ)きます。これによる痛みなのでしょうか』」と言うと、(後藤先生は)「米を舂くことで痛みがあるのです」と言われたと書かれている。 8月31日には、「土曜日。晴。午前、一度下痢。痛みは依然としてとれない。ご飯を食べない。夜、ただ葛の粉末一椀だけを口にする。酒を四,五杯飲んで就寝する。やがて苦しみの汗が顔にあふれ、眠りから醒める。時計を見ると午前二時を示していた。汗もおさまっていた。暁方になって熟睡する」と記されている。 後藤静夫の名が山田養吉先生の日記に記されているのは、いま挙げた通りであるが、これ以前にも後藤静夫氏について関りのあることが記されている。明治20年11月2日の記述に「牛痘を接種しようと思い、家内が悌吉を抱いて水主町病院に行く」とある。この文脈では、「水主町病院」は、「広島県史」にその名が出てくる「躋寿館(せいじゅかん)」と、どういう関係にあるのかという疑問が生じた。「躋寿館」は、広島県史(近代1 医学教育・医学校)によると、「明治5年(1872)5月、後藤静男(夫)、三木達三郎、西山恭平、西山恭平、三宅春蔵、原田毎登らの努力で広島南町4番地の元上田主水邸に会社病院が設立された」と書かれている。設立当初から「従来ノ病客此節六百人」という盛況であったと「広島新聞」明治五年五月の記事を参考に挙げている。躋寿館は、三宅克吉著の「渓助集― 回顧五十年」によると、設立の首唱者は三宅春蔵で、医学研鑽の場とされ、かねて種痘所を置いた」と書かれている。つまり、躋寿館は、広島における病院のはじめであることと、この設立に後藤静夫が深く関わっていたと知られる。 先の記述に続けて「広島県史・近代1」によれば、明治7年(1874)6月、躋壽館は、私立医学校とされている。明治10年(1877)5月、広島区水主町に医学校の建設を始め、後藤静男を副校長として生徒募集(定員50名)をし、7月に竣工。生徒17人が入学。校長には師範学校校長吉村寅太郎が就任している。講義はすべて国語でなされ、修業年限は3年。病院建設は少し遅れたため仮病院で発足した。これに伴い躋壽館は廃止された。明治11年(1878)3月、須田哲造が病院長に就任し、医学校を県立病院の付属として広島県病院付属医学校と改称した。明治16年(1883)7月、病院と分離して広島医学校と改称」とある。「水主町病院」は「水主町」にある「病院」であり、躋寿館が廃止されたのちに建設された、医学校の病院であることが分かる。この病院に、躋寿館の医療器具一切が引き継がれていくことになったのである。 明治20年11月2日の日記に「牛痘を接種しようと思い、家内が悌吉を抱いて水主町病院に行く」と書かれている。これは、この「水主町病院」である。 しかし、明治22年5月27日の日記に、「昨日以来、顎の下に小さな腫物ができ、痛み・痒みをとどめることができない。躋寿館に行き、薬を塗ってもらっても痒みは依然としてとまらない」という記述が出てくる。先に述べたごとく、「躋寿館」はすでに廃止されているはずなのに、「躋寿館に行き」というのはどういうことなのかという疑問が生じる。躋寿館というのは、病院の名前だろうと思いこんでいたからだ。 明冶28年9月13日の日記を読んで初めてその疑問が解けた。日記に次のように書いてある。「躋寿館に行き薬をお願いする。三郎の病気が風邪であるからだ。躋寿館と10History of SHUDO後藤静夫氏と山田養吉先生 ― 後藤家と広島の医事など ― 修道学園史研究会 畠 眞實(高校7回)修道の歴史
元のページ ../index.html#10