修道学園通信vol110
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The Shudogakuen News vol.110111884年(明治17)経営難のために休刊したが、1886年(明治19)に再刊している。広島県では初めてロール機械を用い4ページ新聞を作製した。県庁の令達布告の記載を許可されて一時多くの購読者をもった。翌年井上馨外相がすすめた条約改正の問題で国論が沸騰したが、社内の意見も分裂した。それに経営悪化も加わって同年に廃刊、早速勝三に譲渡された。(「広島県大百科事典」中国新聞社による)●明治二十四年二月七日 「曇り。お役所が芸備日報の発売を停止する。長啓一郎に安芸津新報を買いに行かせてこれを観る。」 安芸津新報は、政友会が新聞発刊を企図し、沖正彦、弟の龍神正重、松浦武夫が、題号の相談に及んだ時に、山田十竹(「日注雑記」の創始者)に問うたところ、「『広島の人間は兎の糞の如く事が継続せぬ。今度浅野侯の御奮発で諸士が意気込んで来たは結構、それでこれまでの百年停滞は牡蠣を飲んで溜飲を下す如く、定めてよく効能を奏するであろう、然らば広島産物の第一なる牡蠣を薬にする牡蠣新聞としたらよかろう』といわれた。折角先生の選名ではあるが最早今日の風に合わないとて廃案に致しました上、拙者へも相談がありましたから、拙者は、今日の尚古的に芸州の者『安芸都彦』という人が神武天皇の東征を迎え奉ったという伝説もあり、日本古名を「安芸津洲」といった故事もあれば何れともなく取りて「安芸都新報」としては如何かと言った。沖正彦は、又山田先生の処に参りまして、相談いたしますと子曰く『これもよいが〝都"の字を知らざる人は京都の都に誤解するかも知れぬ故〝津"に代えるべし』とありまして、遂にそれに決まりました。」(熊見定次郎「広島に於ける新聞紙」:「尚古」第1号 明治39年11月号) 山田養吉先生の日記を読んでみると、広島の新聞の歴史がかいま見られる。上記の「尚古」の文は、先生に関する逸話として興味深い。●明治二十五年四月十七日「同進社に行き、論語を講義する。」●明治二十五年四月二十七日「同進社に行き、論語を講義する。」●明治二十五年五月七日「同進社に行き、論語を講義する。」 漢学者であった先生が同進社に出かけて、たびたび講義をされているのであり、先生と同進社との関りが深いことが窺える。●明治二十五年六月七日「晴れ。藤田、田中が来る。授産所のことを相談する。」 授産所のことを相談するというのは、授産事業のことである。授産事業として、明治15年に広島県が西白島町に設立した綿織物の公共授産事業所を譲り受けての事業や第二授産事業所を広島市下中町(現在の中区中町付近)に機械工場の建設、また第三事業所を広島市袋町に活版印刷所を設置して新聞などの発行したこと、さらには野呂山の開発事業、三原城跡の授産計画などがあった。(田辺良平著「広島を元気にした男たち」を参照)●明治二十五年十二月三十日「昨夜、雪積一分(いちぶ)。金曜日。浅野哲吉が触れ書きを伝える。戒善寺に集まる。行ってみると、同進社と授産所との事を議論している。議論の内容は明白である。しかし議論は、やかましく、聴きとれない。それで先に辞去する。」 小町にある戒善寺で授産事業のことについて議論しているのは明白であるが、あれやこれやと意見が出されて、やかましくて聞き取れないというのである。同進社内で授産事業の在り方などについてなかなか意見がまとまらないようすが読み取れる。●明治二十六年一月八日「晴れ。浅野氏に会い、同進社・授産所のことを議論する。」 授産所をめぐる論議がなかなかまとまらない様子が感じ取れる。●明治二十六年一月二十四日「案件を協議したいので戒善寺に集まって欲しいと言われたので出かける。ところが、戒善寺の僧侶がいろいろと差支えがあって、お客を断っているのだという。どうしてよいのか、あれこれ知っている人に尋ねてみたが、分からないので帰ってきた。』 こういう時もあったようだ。●明治二十六年九月八日「晴れ。金曜日。銀行に集まって授産所のことを相談する。」●明治二十七年九月二十八日「晴れ。日曜日。広島士族会同進社、戦勝を祝う。浅野公もまた臨席される。」 日清戦争は、明治27年7月25日(正式に宣戦布告されたのは8月1日から明治28年4月17日かけて日本と清国の間で行われた戦争である。(戦争期間については異説がある)日本側の勝利とみなせる日清講和条約(下関条約)の調印によって終結したと言われている。ここに記されているのは、実質的な戦勝とみなしての戦勝会であろう。●明治二十八年二月二十六日「晴れ。火曜日。正二位公(浅野長勲)と従五位公(浅野長之)が同進社にご臨幸になる。わたしもまた行って応接の役目を果たす。」 山田先生の同進社との関りを示す記述である。 なお、明治29年の日記はほとんど保管されていないといってよいくらいである。 明治三十年の日記を見ると、●「二月十四日 晴れ。戒善寺にいき、授産の金の事を協議する。」●「五月九日 晴れ。日曜日。佐藤正、わたしたちみんなと集まって授産所のことを協議する。」●「五月十三日 晴れ。木曜日。朝、上田氏のところに行き、上田氏の名義を借りて人を集めることについて協議をする。思うに、佐藤氏の斡旋で授産所のことが解決の緒についた。」 「佐藤氏の斡旋で」というのは、具体的な内容が定かでない。あるいは、同進社の一部の人たちが、熱海で療養中の佐藤正のもとを訪ね、宇品新開地を売却して、その金を同進社社員に分配するように陳情したことに関するものかもしれない。●「五月二十日 晴れ。木曜日。授産所のことを協議する。」●「五月三十日 晴れ。日曜日。佐藤氏に会って、授産所のことを相談する。」●「六月五日 晴れ。土曜日。保田荘に集まって、授産所のことを協護する。」●「六月六日 晴れ。晴れ。日曜日。授産所。」●「七月十一日 晴れ。日曜日。士族授産所総会を誓願寺で開く。総会の進行が速かった。」 総会を控えてしばしば授産所に関わる会議が開かれている。この総会では、当時、授産所の事業としての唯一残っていた「宇品新開地」のことが議題であった。その事業についての解散の議論がきわめて早々と決定されというのである。このことは、以下に述べる佐伯嘉一の著書「財界太平記」の記述に関係していると推察される。 佐藤正は日清戦争において銃弾を受けて左脚を膝のところから切断せざるを得なかったが、その後、広島、名古屋の病院を退院後、伊豆の熱海で後療養をした。佐藤は、広島市長に推挙されるなど、当時、広島においては大御所的存在であった。その佐藤正のもとへ、広島において、宇品新開の授産所を売却し、その売得金を同進社社員に分配しよという策動を始めていた同進社の不平分子が泣きついたという。佐伯氏は「この短見者流の主張をどう考えたのか、佐藤将軍は、『なるほど、よかろう』と是認したと記されている。いわば、同進社の不平分子は佐藤から「お墨付き」をもらったのである。そのことが士族授産所の解散、所有土地51万坪の競売の実現に大きな影響を及ぼしたと思われる。佐伯は、不平分子の言うことを是認したことについて、「退役直後の佐藤将軍は、何かにつけて少々の焦り気味があったのではないか」と言っている。 結局、紛糾を極めた授産所の土地約51万坪を16万4百1円で売却し(1坪あたり31銭強)その代金は、旧浅野藩の士族で現存する戸主5500余名へ1戸当たり26円50銭を分配交付することになった。浅野長勲氏が最初寄付された士族授産事業費3万円も一応返還すことになったが、浅野家は断じて受納しないということで、東京で遊学する広島県出身の学生を支援する寄宿舎となっていた芸備協会へ寄付された。この「芸備協会」は、明治十二、三年ごろ、在京の県有志が、「後進学生を誘導し、我郷永く多士の輩出を期すせん」として」創めたものである。この主唱者に山田養吉先生、佐藤正氏が加わっている。のちに、芸備協会の佐理事長に藤正氏が就任している。また、社員の住所不明で分配金が交付できなかった残余金は、私立修道中学校へ寄贈されたと記録されているという。 以上が同進社と山田養吉先生、そして修道との関りの概要である。*引用している日記の原文は、すべて白文であるが、読みやすいように現代語訳している。History of SHUDO

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