修道学園通信vol110
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The Shudogakuen News vol.11010修道の歴史History of SHUDO 山田養吉先生と、あるいは、修道と同進社との関りについて考察する手がかりは、先生の日記の記述である。先生の日記に「同進社」ということばを見出したのは、明治二十一年の二月一日の記述である。●「一日 雪が舞い上がる。同進社に行く。『燈火余滴』の原稿を活板所に提出する。」と記されている。二月三日の日記には、『燈火余滴』の四字の彫刻成る」とある。 山田養吉先生が同進社に行かれたのは、「『燈火余滴』の原稿を活板所に提出する為」であった。日記に書かれている「同進社」というのは、旧広島藩の士族の団体であり、1880年(明治13)3月、旧広島藩士族団体として結成され、士族授産事業を中心に活動し、1897年(明治30)7月に解散した。旧藩主浅野長公は、旧士族の窮迫状態を救うため、3万円を授産資金として県庁へ寄託した。これをうけて旧藩家老・執政浅野忠、浅野道興、上田譲翁、辻維岳(将曹)が発起人となり、士族を団結して「志操行為正し」「社友を救護」する目的で結社された。具体的な活動としては、県の設立した白島授産所の払い下げを受け、その後数度にわたって士族授産資金の貸与を得て、その他の授産所の新設・拡張、野呂山開拓事業、宇品新開地の経営などにあたった。しかし、授産事業はいずれも不調または失敗し、同進社内でも紛議が絶えなかった。(広島県大百科事典」による) 同進社についてのもう少し詳しい説明が「藝藩輯要」(昭和45年7月20日発行:著者 林保登 発行所:芸備風土研究会)付録編に「『芸藩関係六団体要領』の中の『財団法人:同進社』よると、「同進社は旧藝藩三家老及び其の他当時の有力者により皇室中心主義に基づき道義を励み、業を勧め、困阨(こんあい:苦しみ、困っているひと)を救護し、志操(しそう:固く守って変えないこころざし)を正して元気を復し(取り戻し)、交誼(こうぎ:親しいつきあい)を保ちて以て旧君(浅野公)の恩沢(おんたく:恩恵)忘れず、祖先の遺訓を棄つることなかるべしといふの主趣を以て旧藩中の同志を糾合(きゅうごう:ある目的のもとに人を呼び集める)し」とその設立の目的が書かれている。その活動の拠点となった場所は、「明治十六年、広島市袋町に地を卜(ぼく:占って土地を決定する)し社屋の建築成り」としている。(この同進社の社屋・土地は後に、日本銀行が譲り受けている。現在は展示などの会場として使用されている。) 「当時同族の産を失はんとする者の為に授産事業の営まれんことを官に請ふて之が実現を見るに至り」とし、「同進社の授産事業として、開墾、殖産、紡織、印刷など」記されている。その後、授産事業は、「隆替変遷を免れず」、同進社から分離して独立経営となる。そして宇品竣成後は、耕地造成が唯一の事業となっている。その後、授産事業は、「隆替変遷を免れず」、同進社が解散される明治30年の先生の日記に、この宇品の耕地の件に関してしばしば同進社の会合が開かれていたことが記されている。これについては後に改めて述べることとしたい。 先生の日記に「活板所」にあるのは、同進社の授産事業の一つに「印刷」があることからうなづけるところである。因みに「燈火余滴」といのは、「山田十竹先生履歴書」によれば、「諸生ヲ激励ノ為メニ文詩雑誌ヲ発ス。燈火余滴ト名ヅク」と記されている。生徒各人の作品を掲載した文集である。明治二十年に刊行されている。●明治二十一年九月二十八日 「佐藤正来る。芸備日報を託す。」 日記に記されている佐藤正は、1849年(嘉永2)6月、広島市の白島町で生まれている。8歳の時、学問所に入学し、梅園介庵や木原桑宅につて学んでいる。1866年(慶応2)18歳で学問所の句読師になり、1868年(明治元)には藩の卒小隊長となっている。1871年(明治4)に至るまで広島藩に仕えた。1872年(明治5)東京鎮台に入り、陸軍中尉に任じられている。1881年(明治14)陸軍歩兵少佐に任じられ、東京鎮台第一大隊第三隊長となっている。この時、東京鎮台歩兵第一連隊の連隊長が乃木希典将軍であった。そうした出会いが、先年、乃木希典から佐藤正に宛てた書簡が見つかり、その書簡を修道同窓会が入手して修道中学・高等学校に寄贈されるということにつながるのである。 1894年(明治27)8月に日清戦争が始まるが、佐藤は宇品港を出帆し、平壌及び鴨緑江の戦闘に加わった。翌、明治28年3月8日、平壌攻略・牛荘の戦いにおいて銃弾によって重傷を負い、これにより左脚を切断する(明治28年4月)に至った。10月、退役と同時に陸軍少将に進級する。彼の武功に対し、世間では「隻脚の鬼将軍」の敬称を以てするに至った。この左脚切断のあとの療養のため、明治28年9月に豊橋に帰着した後、12月には伊豆熱海に転居して療養に勉めた。後年、同進社の問題で社員が佐藤の裁断を仰ぐために訪れたのは、この時である。●明治二十一年九月四日 「入校四人。佐藤正来る。」●明治二十一年九月八日「佐藤正を訪ねる。不在。」●明治二十一年九月二十一日「佐藤を訪ねる。」●明治二十一年九月二十二日「小野邦尚が来る。野村文夫が帰省する。昼飯後、野村を訪ねる。不在。そこで小鷹狩元凱を訪ねる。佐藤正、粟村信武も同席する。」●明治二十一年九月二十四日「佐藤正がいよいよ福岡に赴任することになる。佐藤を洗心楼で送別の宴を開く。野村文夫、小鷹狩元凱がくる。洗心楼は三篠川の下流にある。」●明治二十一年九月二十八日「佐藤正来る。芸備日報のことを託す。わたしは、少し考えて答えると返事をした。幣田徹吉を訪ね、このことを相談する。」 以上のように、山田養吉先生が、九月にしばしば佐藤氏と会っておられることが記されている。佐藤正は、陸軍の編制改正(従来の鎮台の称号を師団に改めて近衛および第一ないし第六師団となし、かつ師団内部の編制をも改めたことによる)のため東京滞在を命じられ、5月22日から9月12日まで休職していた。9月13日、歩兵連隊長として復職し、福岡に赴任することが決まっていたのである。 芸備日報は、1882年(明治15)広島日報の改題紙として同じ同進社から発刊された新聞である。社長は、永田恕助、主筆矢嶋錦蔵であった。矢嶋は設立趣意書で「是れ記者(矢嶋)が奮って本社の為に尽くすは,即ち国家の為に尽くすなり」と述べて、広島日報時代の自由党色を一掃して、与党帝政党支持の立場を明らかにした。山田養吉先生と同進社修道学園史研究会 畠 眞實(高校7回)

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