The Shudogakuen News vol.10811えていただければ幸いです。」ということであった。これについては、先の「芸藩志」の記事、山田養吉の日記の記述、小鷹狩元凱の「元凱十著」(昭和5年8月15日発行:弘洲雨屋)の中の「芸備協会略誌」の記述の中の渡正元に関する記事の載っている箇所をコピーしてお送りした。 今回この修道学園通信に原稿を書くに当たり修道館に関する渡正元のことについて改めて確認することとした。渡正元と修道館(合宿修養所)との関り 昭和53年(1978)の「修道学園史」(125頁)に「芸備協会・修道館のこと」という記事が書かれ、これには(小鷹狩元凱「元凱十著」より)と典拠が示してある。「元凱十著」は昭和8年10月に発刊されたもので、この中に収められている「芸備協会略誌」によっている。 「芸備協会」の淵源は、明治12、3年のころ、在東京の県(広島)有志が「後進学生を誘導し、我郷永く済々たる多士の輩出を期せん」として創めたもの、と記されている。明治13年8月23日夜、麻布区我善坊町の山田養吉宅に会合した同志によって決定した。」とある。主唱者は、山田養吉・川合麟三・橋本素助・北川精一・小鷹狩元凱・清水俊・佐藤正・水山烈・鈴木精忠である。はじめ学資貸与を行うを「興芸社」、寄宿舎を「修道館」とした。「修道館」は旧藩校の名を取ったものである。明治14年、広島に興芸西社ができ、東京にあるのが興芸東社になった。後に(明治30年11月)合併して「芸備協会」と改称した。「芸備協会略誌」によれば、明治19年(1886)11月7日、興芸東社の臨時総会で、「渡正元を推して会長と為す」と記されている。 合宿所の急設が必要であるという話が出てきたのは、明治25年(1892)10月8日であった。そして明治28年(1895)9月29日、修道館創立専任7名が選ばれた。この7名のうちに渡正元・小鷹狩元凱の名がみえる。そして修道館の落成式が明治29年11月8日に挙行されている。渡洋二路氏が「漫遊日誌」の渡正元の記述として書かれた内容と照らしあわすと、落成式の日が異なっている。その他は小鷹狩元凱の「芸備協会略誌」の記述と一致している。これについて推察するに、正元が、落成式を明治25年としたのは、修道館の建設の話が興った年を、落成式の日と取り違えたのかも知れない。この落成式での正元の祝辞を小鷹狩元凱は次のように記している。「本日落成式を行い、以て此の館を館生に交付すれば、館生は自今益々勉旃(べんせん)して浅野家及び賛助の先輩諸氏の厚意を空しくすべからざること、浅野家以下賛助先輩諸氏協賛の厚意を謝せること等概略を述べて祝辞とし」と。渡正元の「巴里籠城日誌」 先に、「巴里籠城日誌」が世に出る経緯については、渡洋二郎氏の書かれた文章で概略を紹介したが、この「現代語訳 巴里籠城日誌」(渡正元著。真野文子訳、松井文昭監修:巴里籠城日誌刊行会)は、大正3年(1914)東亜書房から刊行されて「巴里籠城日誌」の現代語訳である。現代語訳されたのは、渡正元のやはり曾孫に当たる方である。この著作の序に、渡正元は「思い起こせば、今を去る、四五年前のことである。私は偶然にも学生としてフランスのパリにいた。その時まさに、プロイセンとフランスの両国間で和平交渉が破れ、両国が戦火を交えるという騒乱となったが、私はこの機会に乗じて、両国の形勢とフランス全国の状況とパリ市内の状態を視察するため、なおもパリに留まって籠城することを決意した。結果としてその講和開城に至るまでほぼ八カ月を過ごした。この間に日夜見聞したことの大要を記録し、また、新聞の要点を抄訳し、書き記したものが貯まったので、これを完成させて帰朝した折に政府に進呈すれば、もしかすると役に立つことがあるのではないかと密かに思った。(以下略)」と日誌を書いた動機が記している。また、「附言」として「本書には一学生である私が倣慢を憚らず、しばしば当時の形勢を無用に論じているものがある。これもまた、後日の参考に役立てようとするため敢えてするもので、身のほどを超えた振舞いの罪を免れることはできない。」と述べられている。その他のことなど*田中正雄のこと この「修道学園通信」を書くに当たり、これまで渡洋二郎氏から頂いていた資料を読み返すなかで「現代語訳 巴里籠城日誌」を開いてみた。渡正元の著作目録の中に、「田中正雄履歴」(正元の弟について)が記されていた。これで山田養吉の明治8年の日記での渡六之介と田中正雄小伝との関係の謎が解けた。うかつにも私はこのことに気づかなかったのである。 このことを確認するために渡洋二郎氏に電話で伺うと、これは国会図書館のデジタルライブラリーにありますと言われ、ダウンロードして送っていただいた。先に紹介した山田養吉の「血痕録」の内容と大要はほぼ同じであるが、「田中正雄履歴」の終わりの「年二十有五歳、仮葬東京千住回向院、明治七年十月、兄渡六之介、憐其志操、移墓於芝泉岳寺義士之墳側、以慰其霊魂、且記梗概 墓面曰田中正雄之墓」(年二十有五歳、東京千住回向院に仮葬す、明治七年十月、兄渡六之介、其の志操を憐み、墓を芝泉岳寺義士の墳の側に移し、以て其の霊魂を慰め、且つ梗概を記す。墓面曰く田中正雄の墓)という記述は「血痕録」にはない。*その後の山田養吉の日記の記述・「明治26年8月13日(日) 晴 朝、小花萬治を其の旅寓訪ねぬ。不在。平本希一郎来たる。渡生(*渡正元)の事を話す。太田徳太郎来たる。明相会するを約す。」・14日(月) 晴 徳三郎に春和園(*元今中大学の別邸:現在の広島市中区区役所のあたりに所在)に会ひて飲む。・「明治27年9月18日(火) 晴 渡正元に招かる。」・「9月19日(水) 渡氏に詣(い)き、咋(日)の招きを謝す。」これらの記述から、太田徳三郎は、洋学生として江戸留学以来常に渡正元に近く接していたことが伺え、山田養吉との交流も続いていたことが分かる。*おわりに 2020年11月に渡洋二郎氏から分厚い書類が届いた。「渡家文書管理台帳」のコピーであった。渡正元のもとに送られた書簡など、専門家によって翻刻・整理されたものである。山縣有朋、佐藤正、浅野長勲ら正元の広い人脈が分かる。広島県出身者の書簡には付箋をつけてくださっていた。その中に山田養吉に触れた書簡も収められていた。明治5年(1872)1月4日、中尾雄九郎から渡六之介に「山田養吉先生此節東京に来たり、至極短(嘆)息の様、如何となれば漢学者当時先ず入用なし、船越洋之介(衛)は相替らず大烈位の事なり。」と記されている。山田養吉は、この時期、広島で初めての新聞(日刊ではなく、現在の週刊誌的な発刊)の発刊も終わり、特定の職がなかったと思われる。・明治6年に「日本志略」を編纂・発刊している。これは海軍省の教授近藤芳隣の求めによるもので海軍兵学寮のテキストとして使用するものであった。山田養吉は明治7年には、海軍兵学寮の幼年皇学(国学)の教官に就任している。*渡洋二郎氏に2019年(令和元)8月20日、広島でお会いする機会を得た。渡正元の四男久雄氏の岳父桑原洋次郎氏の実家のある松江で桑原家関係の研究をされている方々を訪ねられる途次であった。面会の席に渡正元の研究で指導を受けられた元広島市立大学学長田中隆二氏の令夫人田中律子様も加わられた。田中隆二氏の「幕末・明治期の日仏交流―中国地方・四国地方編(二)山口・広島・愛媛―」の著書を、同氏が亡くなられたあと、夫人が編纂・発刊されたのである。幸いにもこの著書をいただくことができた。この著書に、太田徳三郎、中村猛、水谷貢、村上敬次郎ら正元と一緒に洋学生として江戸留学した人々のことが書かれている。山田養吉の日記の翻刻において参考にさせてもらった。*山田養吉の日記に関連して思いがけない出会いがあった。そのことで学園の歴史の細部が明らかにされていくことはうれしい。続けていることはつなぐことだと改めて思わされたのである。 History of SHUDO
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