修道学園通信vol.108
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The Shudogakuen News vol.10810修道の歴史History of SHUDO渡六之介と田中正雄 渡正元(六之介)という人を始めて知り得たのは、山田養吉の明治8年3月4日の日記である。そこには、「渡六之介来る。田中正雄小伝を釐正(文言などの修正)するを乞う。」(現代語訳)と書かれていた。「六之介」というのは、その当時使われていた通称である。渡六之介が明治7年7月8日にフランスから帰国(これについては後に説明する)して明治9年に正式に「正元」を届け出ている。「田中正雄小伝」と渡六之介と田中正雄の関りが分からなかった。ただ「田中正雄」については、「血痕録」(明治26年10月4日発行:著作者兼発行者・山田養吉)に「広島志士。姓は藤原氏、軍太郎と称す。安芸広島の藩士なり。天保12年6月安芸国広島に生まれる。資性豪邁、幼年武術を好み、長ずるに及んで学に通じ、博(ひろ)く人に交わり信義を尽くす。常に曰く、『男子宜しく竹筍の直上天を衝くが如くなるべし。』と。因りて自ら子筍(しじゅん)と号す。(以下略し、概要を述べる)正雄は、勤王討幕の大義を主唱し、江戸において幕府の事情を探ろうとしているうち、幕吏に捕らえられ、幽囚3ケ月の後、毒せられて獄中に死す。慶応2年(1866)正月17日。従容として和歌を詠んで曰く、「軽き身より重き義を取り国のため死ぬる命のなに惜しからん」と記述されていることを承知していた。 のちに、「フリー百科事典ウィキペディア」で調べてみると、「渡六之介」が「渡正元」と改称され、「安芸国広島松川町で広島藩士・田中善平の三男として生まれる安政6年(1859)渡氏を称す。」と記されていた。しかし、渡六之介が「田中善平」の息子であり、「田中正雄」と姓が同じあることが判明したものの、その関係には気づけないままであった。このことについては、後ほどまた触れる。 渡六之介は、山田養吉の日記の翻刻の際「芸藩志」(幕末維新期の広島藩の事績を記録した151巻。浅野長勲の命で旧藩士橋本素助、川合麟三が編纂した。)の慶応2年(1866)11月1日の記述によって「洋学生50名を江戸に留学せしむ」と記されていて、洋学生徒の取締として伴十郎兵衛(資健:すけゆき。のちに広島市長を長く務めた)と山田養吉を総督とし、修学生徒の名が記されている。その留学生徒名簿の二番目に渡六之介の名が記され、後々まで渡六之介と深いつながりを持つことになる太田徳太郎が三番目に記されている。 山田養吉の日記で現在、修道中学・高等学校に保管されている一番年代的に古いものは、慶応元年(1865)の「乙丑日記」である。これを始めとして翻刻した日記を修道中学・高等学校の「紀要」に掲載されている。先に紹介した明治8年(1874)の「十竹軒日録」の抜き刷りを知り合いの方に差し上げたとき、渡六之介の「巴里籠城日誌」(大正3年刊)のことを知っておられ、山田養吉の人脈の広さを言われた。わたしの渡六之介について情報は、2011年ごろまでその程度であった。渡洋二郎氏との出会い ところが、思いがけないことに、2017年8月に、渡洋二郎という方から突然電話があった。わたしは2016年に、「広島の藩校から修道へ」という講座の担当を依頼されていた。広島の文化としての藩校の話をしてほしいということである。その講座の案内がインターネットに掲載されているのを見られて、講座の主宰事務局と修道中学・高等学校の事務所に問い合わせをされたのであった。それで渡洋二郎氏に電話をした。その方は渡正元の曾孫に当たるのだと言われた。詳しい経緯を8月25日にメールで説明された。その内容は、 「私は、曽祖父の事績を研究するため、親族と大学の先生とで渡正元研究会を立ちあげて研究してまいりました。渡正元は、天保10年(1839)広島藩の広島市松川町に生まれました。【筆者注:山田養吉は天保4年生れ】第二次長州戦争で、藩閣と対立し、藩を追われ、江戸の開成所教授林正十郎のもとでフランス語を学びました。慶応4年(1868)戊辰戦争の激化に伴い、熊本に向かい、長崎、大坂に往き、大坂運上所、会計官のもと、生野鉱山で働いておりました。明治2年(1869)9月5日横浜から欧州に向かい、12月7日サザンプトンに着き、翌1870年3月3日パリに入りました。同年6月16日に勃発した普仏戦争に遭遇し、9月19日から132日間、パリで籠城を経験しました。パリ開城後、日本からの観戦武官に、付けていた日誌を手渡した所、高く評価され、官費の留学生になりました。その日誌は兵部省から「法普戦争史畧」として刊行され、大正3年に「巴里籠城日誌」として再刊されました。その後、岩倉使節団との対応、サンシール陸軍士官学校に入学(病気退学の後)ウィーン万博視察などを経て、明治7年(1874)7月8日に帰国しました。帰国後、明治政府に仕え、太政官府大書記官、元老院議官を経て、貴族院議員を33年間勤めました。10年前に「漫遊日誌」という日記が正元の親族の家から発見され、その業績を研究することになりました。昨年(2016)、横浜市立大学名誉教授松井道昭先生の監修のもと「現代語訳 巴里籠城日誌」を刊行しました。更に正元の事績を研究する過程で、江戸に出る前の経歴を知る必要が出て、調べておりましたところ、ウイキペディアの中に、修道学園出身者の中に、渡正元の名前が出ていたため、お伺いする次第です。」というものであった。少し長いメールであったが、渡正元の経歴を簡潔に述べられていて参考になるのでそのまま引用させてもらった。このメールで渡洋二郎氏が確かめたいと思われたのは次の部分である。 「『漫遊日誌』の中に『明治25年11月8日本郷区弥生町3番地において修道館落成式を挙行する。』との記事があります。『余は館舎建築に付き専任委員となり、かつこの落成式に付き、委員総代として挙行することを衆委員よりの委託に応じ、この日落成の演説をなし、かつ修道館学生一同に訓戒の言辞を述ぶ』という記事が出ています。藩の学問所の修道館に正元が通ったという件につき、関連する情報があれば教渡正元と山田養吉の日記修道学園史研究会 畠 眞實

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