修道学園通信vol.106
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The Shudogakuen News vol.10611の指針が「道徳を以て本校の主義とすべき事」「生徒の品行を正すべき事」であった。藩校の精神を継ぐ人として山田養吉先生が最もふさわしいと思われたのである。5.一方、広島県広島中学校は、明治19年(1886)4月に発布された「中学校令」(第1次)によって「広島県広島尋常中学校」と改称される。この「中学校令」は、中学校を、高等中学校と尋常中学校の2等とし、高等中学校は文部大臣が管理し、全国で5校を開設し、経費は国庫とその区内の府県の地方税で支出する、尋常中学校は、一府県一カ所設置が原則とするというものであった。6.このため長勲公は「公」の立場にあったため、私立の修道学校の経営から手を引かなければならないという事態にたち至る。修道学校にとって存続の一大危機であった。  山田養吉先生は、これまで人材の育成のために心血を注いできた教育を断念し、学校を閉ざすことは、忍び難いことであった。そこで、自らが校主となって八丁堀の自宅で修道学校の経営を継続することを決断されたのである。7.県立国泰寺高等学校の歴史をたどってみると、その淵源は官立広島外国語学校に遡る。すでに述べてきたように広島外国語学校は広島英語学校と改称され、西南戦争の影響を受けて、明治10年(1877)に県に移管される。改めて広島県英学校として開校された。そして同年11月に広島県中学校と改称されるのである。明治19年(1886)の中学校令によって、明治20年(1887)10月に広島県尋常中学校と改められた。その際、現在地、則ち当時の国泰寺村の新校舎に移転するのである。移転が完了したのは明治23年(1890)3月である。8.国泰寺村について説明しておく。文禄3年(1594)恵瓊が現在の中区中町に臨済宗の寺院「安国寺」を創建した。そして「関ケ原の戦い」以後、福島正則の弟・普照が入寺し、寺号を「国泰寺」と改称する。同時に曹洞宗に改宗した。福島正則が改易にされた後、浅野氏の帰依を得て浅野氏の菩提寺になった。安国寺の開基時には現在の愛宕池付近が海岸線で、それより南は広島湾であった。広島湾を南に向けて次第に干拓していき、新たな土地は、国泰寺に因んで国泰寺新開と名づけられた。そういう経緯を経て「国泰寺村」が生まれたのである。現在の日赤病院があるあたりも国泰寺村と言われていた。9.広島県尋常中学校は、その後明治30年(1897)4月、広島県第一尋常中学校と改称され、明治32年(1899)4月、広島県第一中学校と改称される。さらに明治34年(1901)4月に広島県立広島第一中学校と改称される。大正11年(1922)4月に広島県立広島第一中学校と改称された。そして昭和20年(1945)8月6日に投下された原子爆弾によって校舎が壊滅した。10.昭和23年(1948)5月、旧第一中学校は新制高等学校に改組され、広島県立鯉城高等学校が発足した。さらに広島県内の高等学校再編により、昭和24年(1949)4月に広島県立広島国泰寺高等学校に改称して、現在に及んでいる。国泰寺高等学校という校名は、学校所在地(現在:広島市中区国泰寺1丁目)近くに浅野氏の菩提寺・国泰寺があることに因んだものである。校章はかつて国泰寺の境内に大きな樟があったので樟の葉三枚と国泰寺が浅野氏の菩提寺であったことから浅野氏の家紋である「鷹野違い羽根」で構成されている。11.修道学校は、山田養吉先生の家塾跡を踏襲して教室を増築したが、校地が狭隘なため、明治40年(1907)2月に竹屋村に校舎を竣工して移転する。これ以前明治38年(1905)3月、山田養吉先生の後を引き継いだ水山烈先生が私立修道中学校の設立を申請して認可されている。大正15年(1926)3月、浅野氏から校地の提供を受けて南千田町への移転が完了する。12.原爆により校舎は全倒壊し、生徒186名、教職員6名の犠牲者を出した。昭和20年9月には十分な形ではなかったが、早くも授業を再開している。そして昭和22年(1947)4月、学制改革による新制中学校を設置し、昭和23年(1948)5月、新制修道高等学校を設置するに至る。13.以上、明治初期以降の両校の歴史を概略的に述べてきたが、令和の現在、国泰寺高等学校と修道高等学校とのスポーツによる交流戦は、「浅野氏広島城入城400年」を記念する行事であるとともに、明治以降の広島の中等教育の二つの大きな流れ、すなわち官公立の学校教育と私立学校教育の流を代表するものとして意義深いと言えるであろう。History of SHUDO

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