修道学園通信vol.106
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The Shudogakuen News vol.10610修道の歴史History of SHUDO 昨年は、「浅野氏広島城入城400年」ということで、広島市を中心に各地で記念の催しが開かれた。修道中学・高等学校においても11月3日に文化祭において記念の講演会が開かれた。パワーポイントを使っての講演であったが、その要点を改めて紹介したい。 対抗戦は、2019年5月21日に修道中学・高等学校のグランドで11種目にわたって行われた。このことの意義について主として修道の歴史をたどりながら考えてみたい。1.明治4年(1871)廃藩置県によって藩校・修道館は廃止される。そのあとを己斐村の土井善右衛門が譲り受けて明治5年(1872)5月、イギリス人ジェムス・ジャイ夫妻を招聘して遷喬舎を開設した。外国人教師による英学の授業と日本人教師による意味学の授業が行われた。広島県で中等教育を施した最初の学校である。しかし、遷喬舎は明治6年(1874)6月閉鎖される。外国人教師の高い給与や、この年官立師範学校・外国語学校が設立されたことが大きく影響している。この官立学校の開設は、明治5年(1872)8月に太政官布告として頒布された「学制」に基づくものである。2.この官立外国語学校は、官立英語学校と改称されたが、明治10年(1877)2月に廃止される。  西南戦争などによる経費節減政策の影響である。  この官立英語学校は広島県に移管され、同年3月に広島県英学校として開校された。校長は官立英語学校の吉村寅太郎が引き続き就任した。このころになると文明開化の熱気も冷め始め、外国語の学習熱が衰えてきて普通教育に重点を置くようになる。大学予備門の性格が増してくるようになる。そうした傾向を背景にして「広島県英学校」は「広島県中学校」と名称が変更される。明治10年(1877)11月である。3.こうした官公立学校の開設がなされていくなかで、明治11年(1878)6月、浅野長勲公は浅野家の庭園、泉邸(縮景園)内に私財を投じて浅野学校を創設し、新設の校舎は温知館と名づけられた。これは、旧家臣のよしみを求め、郷土の子弟に学術を研究させたいという公の思いであり、藩校の精神を継承したいという願いが込められていた。この浅野学校の跡に全国で初めての施設美術館「観古館」(写真)がつくられ、その跡が現在の「県立美術館」に引き継がれている。4.さらに長勲侯は、浅野学校を時代に応じた学校にするため、浅野学校を修道学校と改称し、当時海軍兵学校の教官であった山田養吉先生を明治14年(1881)、校長に抜擢して校務一切をまかせられた。この時先生に与えられた教育修道学校と広島県尋常中学校 -修道・国泰寺戦に因んで-修道学園史研究会 畠 眞實(大手町にあった官立外国語学校)

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