修道学園通信vol.1024
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The Shudogakuen News vol.10411る。藩政の思想的指導者であった。山田養吉の師。また、梅園介庵(1816~1866)の頌徳碑が建てられている。名は、昭郷。字は、造雨。号は介庵。通称は順治郎のち順造。介庵は、藩校の教授。経学・皇典を修め、武技に優れていた。1885年(明治18)麗沢学校を開設している。頌徳碑の撰文は山田養吉先生による。高間省三の碑が建てられている。高間省三(1848〜1868)は、護国神社の筆頭祭神である。戊辰戦争に砲隊長として出陣し、浪江の戦いで顔面に砲撃を受けて壮絶な死を遂げた。父は、高間多須衛(広島藩士:武具奉行)東広島市八条原の広島藩の政事堂(俗に八条原城という)建設の監督・指揮をした。省三の碑の撰文は岡山の阪谷朗盧による。朗盧は、(明治2)広島藩に招聘されている。その際、山田養吉先生と交流があった。修道中学・高等学校の記念品室に書だ所蔵されている。5 多聞院(広島市南区比治山町7) 宗派は、真言宗。治承年間(1127~1181)高倉天皇の勅願により隠渡(現在の音戸町に建立されたものに始まるといわれる。毛利氏の帰依を得て天文年間(1532~1555)現在の安芸高田市吉田に移り、広島築城に伴ない1590年(天正18)広島市の三滝山麓に移った。そして福島正則により1604年(慶長9)現在地に移転した。境内に頼家一族の墓所がある。 頼春水(1746〜1816)学問所再興の際、浅野重晟により藩儒に登用された。藩校の学問を朱子学に統一した。「至聖先師孔子神位」の木主を重晟に建言した。頼山陽の父。梅颸(1760〜1844)春水夫人静子。夫の協力者として礼節と格式のある家庭を創設した。彼女の遺した「梅颸日記」は38年間の、儒教を生活実践として生きた婦人の人間記録である。頼聿庵(1801〜1856)名は元協。字は承緒。通称、都具男。号、聿庵頼。山田養吉先生、河野小石の師。山陽の長男である。頼誠軒(1829〜1894)名は元啓。字は子明。通称は東三郎。家塾「必正舎」を開く。学問所の教授。山田養吉先生と同世代。聿庵の長男。6 山田養吉先生の墓(比治山墓苑) 墓誌に「昭和十二年八月二十九日 キタ九十一歳 二郎揮涙謹誌」とある。先生の夫人キタさんの亡くなった日付にされている。墓誌を二男二郎さんが書かれている。そのほか、長男得一郎さん(1884年泉邸近くの川で水泳訓練中水死された)の墓や、息女夏子さん(1901年8月、先生が亡くなられる直前に亡くなられている)の墓が近くにある。7 加藤友三郎生誕の地(広島市中区 大手町第二公園内) 広島県で初の内閣総理大臣になった。中区の中央公園には、ワシントン会議(海軍の軍縮に関する会議)に出席した時の装いの銅像が建立されている。修道中学・高等学校内に建てられている山田養吉先生の頌徳碑の篆額の文字は先生の教えを受けていた友三郎(1861〜1923)によるものである。山田養吉先生門弟名簿に「海軍中将 加藤友三郎」としるされている。8 修路記の碑(広島市中区鶴見町 鶴見橋の西詰) 鶴見橋の架橋により竹屋町から段原町への通行が便利になったことが記され、この事業に尽力した人たちを称えている。石碑の側面に「佐藤正」の名が刻まれている。佐藤は、修道学校の総理に就任しており、のちに広島市長に推されたが、日清戦争で負傷したことなどで登庁すること叶わず、市長を退いた。撰文は山田養吉先生による。9 藩校修道館の在ったと思われる場所(広島市中区基町:旧広島藩の家老・三原城主 浅野忠ただ英ふさの邸あと:現在の広島市立図書館・ひろしま美術館あたり) 1871年(明治4)廃藩置県により修道館が閉鎖されたのち、1872年(明治5)己斐村の土井善右衛門(号は百穀)が譲り受けて「遷喬舎」(私塾)を開設した。百穀の頌徳碑は己斐の旭山神社の入り口の石段の左手に建立されている。撰文は、山田養吉先生による。10 最初の藩校 講学所が在ったと思われる場所(広島市中区東白島) 1725年(享保10)広島藩5代藩主 浅野吉長が稽古屋敷の一部を割いて講学所を開き、藩儒寺田臨川に督学させた。広島藩の藩校の創始とされている。 のち、1734年に講学館と改称。1743年、財政的理由で、休止になる。39年後、1782年(天明2)7代藩主浅野重晟の時、学問所として藩校が再興された。History of SHUDO■ 「旧重谷家土蔵」広島市の重要文化財に指定 すでに、新聞記事やテレビニュースを通じてご存じの方も多いと思いますが、本校敷地内に移築・復元されている「旧重谷家土蔵」が、2018年12月、広島市の重要文化財に指定されました。 この土蔵は江戸時代後期の建築と推定され、広島城と同じ瓦が使用されていることなどから元々城内にあった建物であり、当時を記録した地図などから、学問所に付属した書庫であった可能性が非常に高いと判断されています。 明治期に東区愛宕町に移転され、その地で原子爆弾の被害にも耐えましたが、近年老朽化が激しく、取り壊しが検討されていました。所有者のご厚意から、広島藩藩校の系譜を引く我が修道学園に譲渡されることとなり、文化財としてはもちろんのこと「被爆建物」としても貴重な建造物として、本校敷地内に復元・保存されることになりました。 これから、元広島藩校としての誇りと伝統のシンボルとして、修道生を見守り続けてくれる大切な存在となってくれることでしょう。 なお、移築・復元事業には、修道学園(中・高)同窓会の皆様から多大なる援助をいただいたことも申し添えておきます。ありがとうございました。

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