修道学園通信vol.1024
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The Shudogakuen News vol.10410■ はじめに 昨年の文化祭において上記のタイトルでパワーポイントを使って話をさせてもらった。その内容を今回、学園通信に掲載するにあたり、書き改めている。この点をご了解いただきたい。 藩校にその源をおく、修道中学・高等学校が現在に至るまでの歴史のなかで、藩校・修道館の閉館(明治4年)のあと、明治11年に浅野長勲公が浅野学校を泉邸内に創設され、ついで修道学校と改称し、山田養吉先生を校長に抜擢されたところに私学修道の出発点がある。その意味で、浅野長勲公と山田養吉先生は、私学修道の開祖の恩人ということができよう。浅野家と修道とは深くつながっていることはすでによく知られているところである。そこでそうしたことを踏まえたうえで、修道とゆかりのある場所を紹介してみたい。1 饒津神社(広島市東区二葉の里2丁目) 饒にぎ津つ神社は、浅野家の藩祖の霊が祀られている。祭神は、浅野長政である。神社名、「饒」は、穀物などが良く実り、にぎわう、「津」は、港、海のほとりで、海辺の「まち」広島の地が豊かになり、賑わうことを祈願したものである。饒津神社の由来は、1706年(宝永3)6代藩主綱つな晟あきらの時に、広島城の艮(うしとら・北東:鬼門)に当たる明星院の中に長政の位牌堂を建立したことに始まっている。そして長政の二百回御忌にあたる1810年(文化8)に、8代藩主斉なり賢かたが前藩主重しげ晟あきらと共に新たに壮麗な位牌堂を建立した。これが饒津神社の先駆的なものである。 1834年(天保5)九代藩主の斉なり粛たかが藩祖長政を追悼するために建立した。揺らぐ藩政の立て直しの精神的支柱とするためであったという。はじめ二葉山御社と称した。命名は、「いかばかり神もうれしと三笠山二葉の松の千代のけしきを」(金葉集・藤原忠道)「住吉の松は昔の二葉より久しき事のためしにぞひく」(新続古今集・後徳大寺左大臣)の和歌かを参考にして藩の執政関蔵人らによってなされた。合祀されているのは、長政の室末ま津つ姫ひめ(秀吉の室:ねねの妹)浅野幸よし長なが(長政の長男)浅野長なが晟あきら、長なが勲ことである。廃藩置県(1872年:明治4)により社格が県社と定められた。 境内には、虎山坂井先生之碑、小石河野先生碑がある。坂井先生(1798~1850)は、通称坂井華で、山田養吉先生の師である。河野小石先生(1828〜1893)は、頼聿庵の弟子で、山田養吉先生と共に学問所の先生を務めている。 なお、1955年(昭和30)3月卒業の高校7回生(筆者も)の卒業記念写真は、本殿に上る石段で撮影された。その当時は、なぜこの場所なのかがよく理解できないでいたが、のちに修道と浅野家とのつながりを詳細に知ることによって納得された。2 明星院(広島市東区二葉の里2丁目) 真言宗御室派の寺院である。山号は月光山。浅野家の祈祷所。寺の位置が、広島城の鬼門(艮:北東)の方向に当たるので浅野家五祈祷寺(他は、国泰寺・日通寺・正清院・松栄寺*現在は廃寺)饒津神社の項で述べたように6代藩主綱つな晟あきらの時に長政の位牌堂を建立したのちに、敷地の西半分に饒津神社を建立した。境内に、加藤種之助(1844〜1891)と伴ばん資すけ健ゆき(1835〜1913)の頌徳碑が建てられている。加藤種之助は広島県で最初の総理大臣になった加藤友三郎の兄。神機隊の一員として戊辰戦争に東北に従軍して活躍した、山田養吉先生の教えを受けており、碑文は先生による。碑が建てられたのは、1896(明治29)で、碑の建立のことは先生の日記にも記されている。伴資健の碑は1919年(大正8)に建てられた。山田養吉先生と共に慶応2年洋学生50人を江戸に引率した。資健は幕末期、広島藩の勘定奉行を務め、財政の窮乏を救うために「贋金づくり」を主導したとして投獄された。後、許されて長く広島市長の職にあった。3 国前寺(広島市東区山根町32) 山号は自昌山。日蓮宗。国禅寺の山門は、国泰寺、誓願寺の山門と共に広島の三大山門である。広島市の有形重要文化財である。浅野家の菩提寺「国泰寺」の「国」と二代藩主浅野光晟の室、萬姫の実家前田家の「前」を合わせて「国前寺」と改称した。それ以前は、暁忍寺といい、1340年〈暦応3〉に建立されている。本堂と庫裏は、国の重要文化財である。 寺の墓地に寺田臨川(1678〜1744)の墓がある。通称は半蔵。名は立革、字は、高たか通みち。号は臨りん川せんである。4代藩主綱長に登用され、侍講となる。1725年(享保10)5代藩主吉長に藩校・講学所の教育を任せられる。「講学館学規三則」を示し、学問は自分の身を修めるものだと教えた。 修道中学・高等学校の記念品室に所蔵されている寺田臨川の胸像は、この墓から掘り出された臨川のしゃれこうべによって復元されたものである。4 聖しょう光こう寺じ(広島市東区山根町29) 山号は、広島山。宗派は曹洞宗。かつては万松山瑞ずい川せん寺じと称された。寺運が衰えて浅野時代に国泰寺の末寺となった。山号を広島山と改める。1975年(昭和50)中区小町の聖光寺と合併して寺号を聖光寺と改めた。ここに金子霜山(1789~1865)の墓がある。霜山は、諱いみなは済民、号は八霜山。略して霜山。通称、徳之助。藩儒。金子家は代々東城浅野に仕え、医を業とした。霜山は、博識、特に易学に秀で修道ゆかりの地 in ひろしま 修道学園史研究会 畠 眞實修道の歴史History of SHUDO
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