修道学園通信vol.102.
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The Shudogakuen News vol.10211件です。このとき、三条実美を含む尊王攘夷の公家7人も朝廷から追放され、長州に落ち延びていきました。「七卿落ち」という出来事です。1864年(元治元)、この年、先生は32歳です。藩の命令で田口太郎と共に山口へ派遣されました。目的は、京都から追放された三条実美ら公家の慰問と前年5月に長州が外国の商船を砲撃したことへの報復として8月に英・米・仏・蘭の四国艦隊がやって来て長州が砲撃され、西洋の絶大な威力に打ちのめされた実状の視察のためでした。 1866年(慶応2)先生が34歳の時、藩の命令で洋学を学ばせようと学生55名を江戸に引率されました。この慶応2年6月7日、大島口の戦いによって第二次幕長戦争が始まります。次いで6月14日には安芸口(小瀬川など山口県と広島県との県境地域)の戦いが始まりました。この戦いは、長州軍が幕府軍を圧倒して、9月2日、敗れた幕府側と長州との停戦の協議が宮島の大願寺で行われ、実質的に終わりました。これにより幕府は崩壊への道をたどることになります。 この年の12月には、大きな変革がありました。大政奉還です。今年(2017年)は大政奉還から150年目に当たります。長く続いた武家の政治を朝廷に返上したのです。続いて王政復古のクーデターが実行されました。この大政奉還・王政復古に不満を持った旧幕府の家臣たちと薩摩・長州を中心とした新政府との反目により、1868年(慶応4・9月8日から明治に改元)1月3日に鳥羽・伏見の戦いが始まります。この戦いがさらに戊辰戦争へと続くことになります。 慶応4年1月23日に先の洋学生に対して帰藩の命令が出されました。先生たちが帰藩の途中に京都で戊辰戦争へ出動している神機隊・発機隊兵士に出会います。その中に先生のかつての仲間も加わっていておりました。先生はその仲間から戦へ参加するように促されました。その時に書かれたのが「待賓説」なのです。先生はこの一文を示して、人材育成こそが自分の務めである。だからそれを措おいて戦いに行くことはできないと断わられたのでした。 幕長戦争が終結して学問所の学塾が八丁馬場に再興されます。これは先生の建言によるもので、先生が塾頭となられます。ついで1869年(明治2)4月15日、志和の文武塾の教授となられた時が37歳です。5月18日には函館戦争が榎本武揚の降伏で終わり、戊辰戦争が終結します。ここをもって幕末の終わるわけです。そのため、この地に広島藩が非常時に備えて建設していた、いわゆる八条原城の工事は中止になります。それに伴い1870年(明治3)1月20日、文武塾が廃止され、八丁馬場に移設されていた藩校・「修道館」(皇学・漢学・洋学・医学の四学を総称)に吸収されることになります。この「修道館」が現在の「修道」の名称の起源です。この 修道館も1871年(明治4)廃藩置県(7月14日)により10月23日に廃止されました。 以上が「十竹先生物語」に記されている幕末に先生が遭遇された事績の概要です。幕末の事績に大きく関わっておられたことが分かります。 終わりに、先生の日記に見える幕長戦争に関わる記述から先生自身が目撃された情景が生々しく述べられている箇所を紹介しましょう。 まず、6月14日の記述です。「帰り道、白神一丁目にある紀州公の本陣前を通り過ぎる。兵士がたくさん入、混じり、混雑を極めている。夜、(中略)市中を通り過ぎる。榊原・井伊の敗残兵が今や帰ろうとしている。その敗軍の醜態は見るに耐えない。刀・鎗の武器で傷をうけた者、弾丸を受けた者。歩くことができないで道端に臥している者。白旗を腰に挿さして馬上で身を縮めている者。死んだ者のように伏せっている者。甲を脱いでそれを背負っている者。甲を脱いで馬の背で縮こまっている者。馬が歩くことができないような者。縄で刀を十数本まとめて背負っている者。折れた槍を提げている者が連なって帰ってくる。時には軍服・はちまき姿で首に矛を提げて西に逃げる者も、ぞくぞくとして絶えない。紀州公の兵が戰に臨むのであろうか、帰り道、城中を通り過ぎる。わが藩の兵がちょうどこの夜集結しようとしている。わが藩兵で、南門の側の社に集結していた者は、古江に向け出動する。」 またこの戦争について、6月15日の記述に「抑そもそも悲しむべき者は民なり。大竹・油ゆう見み・小方・玖波等の民屋悉く焼しょう尽じんし、灰と爲る。」また同じ日の記述に「長兵の暴(横暴な行動)悪にくむべなり。然るに長の号令一つならずか、暴を為す者有り。恵を施す者あり。」とあります。戦争でひどい目に遭う民の苦しみ、悲しみに目を注がれています。長州軍は、一般の民を思いやった行動をし、それらの支援を受けて幕府軍と戦ったことも戦いに勝ち抜いた一つの要因とされておりますが、そうした中にも戦いいおいてはやはり負の部分があることを先生は見ておられます。 この日記の最後、8月16日に、幕長戦争が繰り広げられている中で、「近頃、長兵境を払ひて帰る。只小兵小方・大竹之間に在るのみ。官軍も亦五日市に退く。しかるに余未だ其の詳説を聞かず。将軍も亦薨去す。又、閣老伯州罪せられ、閣老壱州脱走し国に帰ると聞く。又一橋公将まさに来たらとすと聞く。又兵庫開港、まさに来月(開港勅許:慶応3年5月、開港:同12月)に始めんとすと聞く。又薩(薩摩)と土(土佐)、会津公(松平容かたもり保)を討ち、京けい師し(京都)頗る騒然たりと聞く。嗟ああ、天下の治乱知るべきのみ。」と幕長戦争の最さなか中の世情を嘆いておられます。この日記は、幕長戦争を伝える資料としても貴重であると言えましょう。こうした意味で先生の日記を丁寧に読むことの意義が大きいと思う次第です。(紙面の関係で講演の内容を少し縮め、配布した資料を割愛していることをお断りいたします。)History of SHUDO

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