修道学園通信vol.102.
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The Shudogakuen News vol.10210 本日は、「山田養吉先生と幕末」という題でお話をいたします。幕末は、ふつう1853年(嘉永6年6月3日)ペリーが浦賀に黒く塗られた軍艦でやってきた時から函館戦争が五稜郭で旧幕府軍の榎本武揚が降伏して戊辰戦争が終結した1869年(明治2)5月までを言っています。 山田養吉先生は、1833年(天保4)12月9日、広島藩藩士山田三太の長男として生まれました。ペリー浦賀来航の年、1853年、先生は21歳(数え年)です。黒船の来航は260年に及ぶ徳川幕府の鎖国政策による太平の眠りから日本が目を覚まされる一大事件でした。「黒船」は正に西洋文明を象徴するものであり、「西洋」が押し寄せてきたともいえるものでした。「太平の眠りを覚ます上喜撰たった四杯で夜も眠れず」という当時の狂歌があります。「じょうきせん」は、上等なお茶の「上喜撰」と船の「蒸気船」を掛けた言葉です。カフェインを多く含んだ上喜撰は、コーヒーのように4杯飲むと興奮して夜寝つかれないということと蒸気船が4隻やって来た、その衝撃と不安で夜も眠られないという当時の人たちの心情を反映しています。 ペリーはアメリカ大統領の国書を持ってやってきて幕府に開国を迫ります。これにより日本は開国か攘夷かで国全体が大きく揺れ動くことになりました。「攘夷」というのは、いわゆる「中華思想」に基づくもので、自国を中心にして周囲の他の国の人は、「夷」つまり「えびす」、野蛮人であると考え、この異国人を打ち払う・排除するということであります。戊辰戦争が終結した1869年、先生は38歳でした。つまり、青年時代から壮年時代の最も意気盛んで精神の燃え滾たぎる時期が幕末期であったわけです。そのことを在校生全員が読んでいる「十竹先生物語」によってみてみましょう。 尊王攘夷の議論が盛んになり、1854年(嘉永7)幕府(大老井伊直弼)は天皇の勅許を得ないで「日米通商和親条約」を結びました。これに強く反発をした攘夷派志士たちを厳しく断罪しました。安政の大獄です。その中の一人吉田松陰は、米国への密航失敗と幕府閣僚の襲撃の罪で処刑されました。 そのような情勢の中で、広島藩藩主浅野長訓は公武合体の思いを抱いており、執政辻将曹を上洛させて国事に尽力するようにと考えておりました。そのために有能な人物を藩内に求めます。そうしたとき、先生の実弟である片田春太が、(この人は江戸で藩の仕事をしておりました)江戸から山田養吉先生へ手紙を送り、一日も早く上洛して藩主を助けるようにと強く勧めました。先生は、藩主の尊王の思いを実現させようと思い、上洛のうえ天下の憂国の士と交わり、意見を交わすことが藩のなすべきことであると決意されました。そこで同士である田口太郎・川合三十郎・船越八左衛門(後の衛)星野文平たちと話し合い、その結果、われら同士がたとえ脱藩してでも上京して藩主をお助けしようと覚悟しました。当時、脱藩は死罪にも値するような厳しい処分がされる時代でありました。そのため、決意はしたものの、脱藩すれば累が家族にも及びます。そこで同士の中で一番年長である先生が、かねて親しかった小鷹狩介之丞(後の正作)に相談します。小鷹狩介之丞は、同僚の黒田益之丞(後の益男)を介して彼らの決意を執政(家老)辻将曹に伝えました。将曹は、わが藩にこのような熱血の若者がいることを喜び、4人を自分の随行といたします。ただ星野文平はこの随行者の中には入れられませんでした。文平には告げられませんでしたが、藩は別の任務を彼に命じようと思っていたことを後で知らされます。この文平はなかなかの憂国の士でありまして、いくつかの挿話もありますが、本日は割愛いたします。 1863年(文久3)8月18日にいわゆる八月十八日の政変が起こります。簡単に申しますと、薩摩藩と会津藩の公武合体派によるクーデターによって、過激な尊王攘夷派であるとされた長州藩が京都から追放されるという事山田養吉先生と幕末-幕長戦争のことなど2017年10月29日に行いました292年祭特別記念講演会の講演内容を掲載しています。演 題:山田養吉先生と幕末-幕長戦争のことなど講演者:修道学園史研究会 会長 畠 眞實先生(元修道中学校・修道高等学校校長)場 所:修道中学校・修道高等学校 本館大会議室修道の歴史History of SHUDO

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