修道学園通信【春号】 vol.100
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The Shudogakuen News vol.10011の日記となるのが明治34年の8月13日までのものです。先生は、明治34年8月26日に病のため亡くなられました。この間、明治5年・6年・7年の日記は残っておりません。明治8年、海軍兵学寮時代の日記はあります。明治9年からは、明治15年(2月10日~5月9日)を除いて明治19年までがありません。明治20年から明治28年までは、明治23年を除いて残されています。明治29年は、11月23日から12月11日だけしかありません。明治30年はほぼ1年間、明治33年は2月半ばから12月半ばまでありますが、明治31年・32年・34年は残されている部分が少ないのです。 日記の内容の紹介を十分するには時間的に無理なのですが、概略を申しますと年代的に一番古い「乙丑日記」は、学問所の様子をうかがい知ることができます。次の慶応2年(1866)の「丙へい寅いん日記」は第二次幕長戦争の安芸口の戦い(小瀬川あたりを中心とした戦い)での様子が述べられています。特に長州軍の激しい攻撃に退却を余儀なくされた幕府軍(彦根藩・高田藩の兵士が主力)が広島城下の本陣に逃げ帰った様子を目撃された記述は資料としても価値の高いものだと言えるでしょう。慶応2年6月14日の日記の一部です。「帰路一町目街紀州公陣営前を過ぐ。兵士雑ざつ遝とう(ひとごみ)輻ふく湊そう(こみあう)極む。(中略)。榊原・井伊の敗卒方まさに帰らんとす。其の敗軍の醜態見るべからず。金創(刀・槍などの金属製の武器で受けた傷)を被る者、弾丸を受く者、罷つかれて歩く能はず、路に露わにに臥す者、白はく麾き(しろはた)腰に挿して身を馬上に約し(ちぢめ)、死者の如く伏臥する者、甲かぶとを脱ぎて之を荷になふ者、甲を脱ぎて馬の背に約ちぢむ。馬罷つかれて歩く能あたはざるが如し。縄を以て刀十数を約して(まとめて)荷になふ者、折おり鋒ほこを提する者、 累々として帰る時、戦袍(軍服)帕(はちまき)、首矛を提げて西走する者、亦続々として絶たず。」 また明治4年8月の日記に広島大一揆に関する記述があり、明治初年の広島の状況の一端を伝えている点で貴重であると思われます。「八月四日 竹舘公(浅野長なが訓みち)松園(浅野懋とし續つぐ)二公及び二位公(浅野長勲)夫人らが東京に移住されようとした。午前四時ごろ、私はまだ蒲団の中にいた。 門の外を走り過ぎる者がいる。その者たちが起きろ、起きろと叫ぶ。しばらくしてまた走り過ぎる者がいる。皆出てみよ。皆出てみよと叫ぶ。私は驚いて起きる。某塾生が知らせて言うには、民衆が竹舘公の上京を抑え留めようと謀っている、と。」 明治8年(1875)の日記は、海軍兵学寮(海軍兵学校と呼ばれるのは、明治9年から)の教官時代の唯一の日記です。明治20年(1887)の日記は、明治19年浅野家から離れて修道学校を先生自らが経営されるようになった時代のもので、20年代の日記には修道学校の運営を中心として、当時の広島の様子も知ることができます。明治31・32・34年の日記は、1年間を通じたものではなく、体裁もあまり整ったものではなくなっています。使用された紙を利用したものもあります。 残念なことに元治2年(1865)以前の日記や、明治5・6・7年、23年の日記が保存されておりません。明治4年(1871)の日記の初めに、自分が6・7年書きとどめた日記などを江戸から広島に帰るに際し船便に託したが、それが途中で沈んでしまったことを悔やまれる文章が記されています。このことも誠に残念です。 終わりに先生のお子さん悌吉くんのことを書いておられる日記の一部を紹介しましょう。明治27年9月の日記です。「一日。悌児の病赤痢。終夜、看護。就寝能わず。」とあり、悌吉君の父と母への言葉が記されています。「昼間、お母さんが入ってはいけませんと言われた濠に入って蓮の実を採りました。お母さんがいけないと言われたことを聞かなかったのはみんなぼくの罪です。それでこのように病気になりました。これからはもうしません。どうか許してください。そう言って間もなく眠りに落ち、体をさすってやっているうちにやがて冥途に旅立った。」先生の親として気持ちが伝わってきます。 まだ解読を続けています。みなさんに読んでいただき、修道の歴史にますます関心を持っていただければ幸いです。History of SHUDO幸いです。

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