修道学園通信Vol.96
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The Shudogakuen News vol.9611定はできないが、良質な角材を使った梁など内部構造から城内の蔵にまず間違いない。『御三』(ごさん)の蔵ということから恐らく『三の丸』にあったと蔵であろう。」とコメントされています。わたくしどもは、2010年6月に加藤ご夫妻からお話を伺いました。加藤さんは、「貴重な史的建築物であり、解体は将来に悔いを残す。この土蔵の所有者は『明治の始めに広島城の〝ごさん〝の蔵をもらい受けたと言い伝えられてきた』と話されました。この土蔵は原爆で被災し、かなり老朽化しており、所有者の方が近く解体撤去して、新たに建物を建てたいと言っておられる。所有者は、『この土蔵を保存してもらえるのであれば、無償で譲ってもよい。』と言っておられます。」と話され、さらに「貴重な文化財なので、広島市によって保存してもらいたいと、広島市文化財担当部署に申し入れたのだが、『現段階で、学問所の蔵であるという確証がなく文化財指定に至っていない。そのため予算づけはできない。』と回答されました。そこで、何とか保存をと思い、学問所に関係の深い修道へ話をしてみようと思い、研究会へ電話をしました。」と言われました。そして、蔵を見学いたしました。蔵の外側がトタンで蔽われていて、「これが、原爆での焼失を免れたのではないか、学問所の蔵として、書類・文書などを収めていたのではないか。」と加藤さんが言われ、さらに、「明治の初め、〝御三〝の蔵を、曾祖父である広島藩士山口愛次郎が浅野さんから譲り受けたものである。城の蔵(衣装蔵)と言い伝えられている。」と蔵の所有者、重谷昌江さんが言われているのだとお聞きしました。調査の結果、『藝藩志第21巻』によれば、愛宕の蔵所有者の曾祖父、山口愛次郎氏は「鼓手 三石 山口愛次郎」と記載がありました。そこで学園本部において、さらに調査された結果、以下のような見解をまとめられました。▲広島城三之丸学問所から移築されたとされる裏付けとして1.梁や柱の削り方から200年くらい前に建てられている。梁や柱などに立派な構造材(栂・つが)が使われている。1間の長さが広島城のものと同じ。広島城にあった土蔵に間違いない。(広島大学 三浦正幸教授(工学博士))2.屋根瓦刻印(製造元印)が広島城から発掘された瓦刻印(塩利(愛媛県今治市の菊間瓦)と合致する。(加藤早苗氏)3.愛宕の蔵の大きさと合致する蔵が古図面・広島城三之丸学問所にある。広島城郭の古図面に40あまりの蔵があるが、その内、2棟愛宕の蔵と同じ大きさの蔵がある。(加藤早苗氏)4.修道学園記念品室の「旧藝藩学問所」の配置図の額の右上に「書庫(二階)」、同中央下部分に「庫(二階)」の記載がある。5.昭和6年発行『修道中学校史』の「藝藩学問所文久慶応頃ノ図」にも「書庫(二階)」、同中央下部分に「庫(二階)」の記載がある。6.「竹之丸御屋鋪惣図」平面図の学問所との北側境界部分にある御蔵には「学問所受 御蔵」と記されている。7.2間×3間の蔵は加藤早苗氏の調査においても学問所にしかない。8.断定資料はないが古図面などの状況証拠から判断して学問所の蔵であった可能性は極めて高い。(広島大学 三浦正幸教授)以上のことを踏まえ、修道学園理事会で検討を重ねられた結果、復原が実施されるに至りました。復原費用に関しては、修道学園同窓会の支援が得られることになり、完成すれば広島市の文化財の指定が受けられる見通しが立っているということであります。2012年4月3日に復原の起工式がなされ、2012年10月22日にお披露目式が行われました。この時点で外壁荒壁塗りが完成しており、それ以後半年をかけて工程ごとに養生期間をおきながら仕上げていくということであります。広島城内にあった建物としては、安芸府中の多家神社・宝蔵が広島城三の丸稲荷神社の社殿の一棟であります。学問所の蔵である可能性が極めて高い、この蔵は、広島旧市内に残る唯一の江戸時代の建物であり、学問所の流れを汲む修道にとって極めて重要な文化財であることは勿論、広島市においても貴重な文化財であるということであります。この蔵が修道の文化的発信の拠点として今後活用されますことを切に祈ります。History of SHUDOHistory of SHUDO

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