修道学園通信Vol.96
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The Shudogakuen News vol.9610学問所の学派について申しますと、闇斎学派(垂加派)には、山崎闇斎に師事した植田艮背(うえだ ごんぱい)がいます。彼は、闇斎を厚く信奉し、この派の正統をもって任じていました。他に金子源内、加藤三平の学者がいます。古学派は、朱子学を後世の説として退け、古代聖賢の書から聖人の道を学ぼうとしました。人間の欲望を本来的なものとして肯定します。この派には、伊藤仁斎を祖とする古義学派と荻生徂徠を祖とする古文辞学派とがあります。経世済民の学を唱え、後世に大きな影響を与えました。香川修蔵、梅園文平、駒井忠蔵の学者がおります。朱子学派には、朱子学正学派のリーダー頼春水がいます。彼は、現実の「風俗」が「不醇」であるとし、学問は社会秩序を確立する基本原理と考え、荻生徂徠に基づく古学を「今日の用に立つことのみを心得る」と批判しています。しかし、香川修蔵は、学問の目的は聖人の書を読んで道を明らかにし、実践することにあるが、徳を完成するだけでなく、国家有用の人材となることが根本であると述べ、多くの学生を集めました。このような学派の対立は、学生たちの対立にも及び、教育の効果も上がらないと藩当局も認識し、頼春水の主張を入れて、天明5年、1785年12月、学問所の教育を朱子学に統一するという達しを出しました。幕府の「寛政異学の禁」に先立つこと5年であります。これによって古学派の梅田文平、香川修蔵、駒井忠蔵らに学問所への出勤をさし止め、門弟の教育は自宅で行うように命じました。その際、藩主・重晟は南浜、香川修蔵の学識を惜しみ、特に現在の三川町に屋敷を与えました。香川は、門弟たちと修業堂を復興しました。この修業堂には、700人を超える学生が集まり、むしろ学問所より学生が多く、この「修業堂」が藩立化していたとも言えるでしょう。これは、重晟の治世下、藩の財政問題が大きな関心事であったことに関わりがあり、「経済の道」を説く古学派の主張に現実に対応し得る人材養成を期待していたと考えられます。のちに学問所教授、金子楽山、頼春水、加藤定斉らは連名で学問所と修業堂の統合を求める意見書を藩当局に提出しましたが、この意見書は取り上げられませんでした。修業堂は香川の死後、文政11年、1828年2月廃止となりました。これ以後、幕末期の教育ということに及ぶのでありますが、本日はここまでで一応終えさせていただきます。演題に「蔵」を挙げておりますので、そのことに触れたいと思います。蔵に関しては、古民家研究会の加藤早苗さんから修道学園史研究会がお話を聞いたのがきっかけでした。加藤さんは、錠前の収集をされており、それを機に蔵の施錠方法に関心を持たれ、土蔵の調査を始められました。そして西国街道沿いの広島市東区愛宕町にある土蔵に出会われ、17年前からこの土蔵に関心をもって来られました。この蔵のことについて、日本建築史研究の第一人者である広島大学大学院教授の三浦正幸先生に相談されました。三浦先生は、2010年4月3日の中国新聞に、「確「藩校・学問所、そして蔵」2013年11月2日、3日に行いました288年祭特別記念講演会の講演内容を、前回と今回の2回に分けて掲載しています。演 題:藩校・学問所、そして蔵講演者:修道学園史研究会 会長 畠 眞實先生(元修道中学校・高等学校校長)場 所:修道中学校・修道高等学校 3階 大会議室修道の歴史

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